幸せになるためのちょっといい話し・・・
2013-05-22T15:56:38+09:00
vhiko
自分を変えたいと思ってるあなたへ、ちょっといい話しを教えます!
Excite Blog
無限の力・・・
http://mugikiri.exblog.jp/20478447/
2013-05-22T15:57:24+09:00
2013-05-22T15:56:38+09:00
2013-05-22T15:56:38+09:00
vhiko
未分類
尾崎まり子(主婦、喫茶店勤務)
…………………………………………………………………………………………………
突然、それは本当に突然でした。
四年前になります。
お正月を過ぎてほどない日の午後、
息子の功が意識を失って倒れたのです。
不整脈から心肺停止状態に陥ったのでした。
小学生から野球に熱中し、中学生になると
浦安リトルシニアに入り、やがては甲子園出場、
巨人入団を夢見ていました。
そんな作文を小学六年の時に書いています。
中学三年で身長百七十六センチ、体重六十三キロ、
鍛えた筋肉質の身体は頑健で、
学校は無遅刻無欠席、病気らしい病気を知らずにきた子でした。
それだけに突然の異変は驚きでした。
それから四か月、何度も訪れた危篤状態を
驚くような生命力で乗り越え、
平成十二年五月二十日、功は天国に旅立ちました。
十五歳八か月の人生でした。
振り返ると、一日二十四時間では
とても足りないような毎日を過ごした子でした。
中学生になると、土日は野球の練習や試合でいっぱい。
学校では生徒会役員を一年生からやり、
三年では学級委員長も務めました。
それだけでも手いっぱいなのに、
部活動ではバスケット部に入りました。
苦手の英語も、英会話で進める授業の面白さに引かれ、
その勉強もしなければなりません。
野球の仲間、クラスメートとの遊びもあります。
あれもやりたい。
これもやりたい。
でも、功はこだわりの強い性格なのでしょうか。
中途半端が大嫌いで、どれ一つとして疎かにはできません。
徹底してやるから、時間がいくらあっても足りないはずです。
「ああ、時間が欲しいよォ」
いまでも功の声が聞こえるような気がします。
あんなふうに生きたのも、自分に与えられた
時間の短さを予感していたからなのかもしれません。
といって、功は特に才能に恵まれた子ではありませんでした。
いささか恵まれているといえば背の高さぐらい。
まず運動神経も人並み、頭脳のほうも
人並みというのが率直なところです。
だから、何かを達成しようと思えば、
努力しなければなりません。
野球でレギュラーになるのも努力、
生徒会役員の務めを果たすのも努力という具合です。
そして、目標を立て努力すれば夢は叶うという確信を、
小さい営みの中で功なりにつかんだのでしょう。
いつごろからか、功はそのことを
「無限の力」という言葉で表現するようになりました。
「誰にでも無限の力があるんだよ。
無限の力を信じれば目標は必ず叶うんだ」
お母さん、これだけはちゃんと聞いてくれよという感じで、
夕餉(ゆうげ)の食卓で功が言ったことを、
昨日のように思い出します。
「無限の力」で忘れられないのは、
やはり中学三年の時の校内合唱祭でしょうか。
音楽が得意というわけでもなく、楽譜も読めない功が、
自分から立候補して指揮をすることになったと
聞いた時は驚きました。
それからは楽譜と首っ引きで指揮の練習です。
腕を振りすぎて痛くなったり、
クラスのまとまりの悪さに悩んだり、
いろいろとあったようですが、
功は「無限の力」を学級目標にかかげ、
みんなを引っ張っていったのでした。
そして、クラスは最優秀賞、自身は
指揮者賞を受けたのです。名を呼ばれ、
周りにピースサインを送り、
はにかんだ笑顔で立ち上がった功。
「無限の力」は本当だと思ったことでした。
その二か月後に功は倒れ、帰らぬ人になりました。
しかし、私が「無限の力」を実感するようになったのは、
それからかもしれません。
一緒に野球をしてきた親友は功の写真に、
「おれがおまえを甲子園に連れてってやる」と誓い、
甲子園出場を果たしました。
「功が言っていた無限の力を信じて、看護師を目指すよ」
と報告してくれた女の子もいました。
出会い、触れ合った人たちに何かを残していった功。
それこそが「無限の力」なのでしょう。
私も、と思わずにはいられません。
自分の中にある「無限の力」を信じて、
自分の場所で、自分にできることを精いっぱい果たしていく。
そういう生き方ができた時、
功は私の中で生き続けることになるのだと思います。
先日、用事があって久しぶりに
功が通っていた中学校を訪れました。
玄関を入って私は立ちすくみ、動けなくなりました。
正面の壁に功の作文が張り出されていたのです。
それは功が倒れる数日前に書いたものでした。
あれから月日が経ち、先生方も異動され、
功をご存知の方は三人ほどのはずです。
それでも功の作文が張られているのは、
何かを伝えるものがあると思われたからでしょう。
これを読んで一人でも二人でも何かを感じてくれたら、
功はここでも生きているのだと思ったことでした。
最後に、拙いものですが、功の「友情」と
題された作文を写させていただきます。
《私にとって「友情」とは、
信頼でき助け合っていくのが友情だと思う。
そして、心が通い合うことが最も大切なことだと思う。
時には意見が食い違い、言い合う事も友情のひとつだと思う。
なぜなら、その人のことを本気で思っているからだ。
相手のことを思いやれば、相手も自分のことを
必要と感じてくれるはずだ。
私には友が一番だ。
だから、友人を大切にする。
人は一人では生きられない。
陰で支えてくれている人を忘れてはいけない。
お互いに必要だと感じることが、友情だと思う。
尾崎 功》
...........................................................................
※出典:『致知』2004年7月号「致知随想」より
※肩書きは『致知』掲載当時のものです
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招き猫・・・
http://mugikiri.exblog.jp/20478402/
2013-05-22T15:47:31+09:00
2013-05-22T15:46:56+09:00
2013-05-22T15:46:56+09:00
vhiko
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『招き猫のはじまり』
昔々、江戸の町にとても貧しい禅寺がありました。ひっそりと二~三
人の雲水だけが修行し、檀家のお布施によって辛うじてお寺の運営を
維持していました。
この寺の和尚さんは大の猫好きで、ただでさえ粗末な自分の食事を割
いて猫に与え可愛がっていました。
ある日、あまりに貧しいので和尚さんは猫に向かってグチを言いま
した。
「おい猫よ、もしお前が私に恩を感じるならば、何か果報をもたらし
てみよ」
でも猫は何も答えませんでした。
それから何か月か経ちました。
夏の日の午後でした。
門の周辺が騒がしいので何だろうと思って行ってみると、鷹狩りの帰
りとおぼしき数人の武士がそこにいました。
ひときわ風格のある立派な武士が和尚にむかって言いました。
「我ら、今、寺の前を通りすぎようとしたら、門前に一匹の猫がうず
くまり我らを見上げてしきりに手招きしておる。その様子があまりに
不審なのでここまで尋ね入った次第。しばらく休憩させよ」
和尚は一行を歓迎して、休憩所で渋茶などを振る舞いました。
すると、先ほどまでの晴天がうそのように曇りだし、たちまち激しい
夕立が降りはじめました。ついには雷鳴までもが加わってすぐにはや
みそうもありません。
手持ちぶさたは失礼と、和尚は三世因果(過去・現在・未来の因果関
係の法話)の説法をしました。それを聞いて武士は大いに感銘し、仏
教に帰依したいと申し出ました。それどころか、この寺の檀家になり
たいとも言ってくれました。
和尚はびっくりしました。念のため、武士の名前を伺うと、武士は
「我こそは、江州彦根の城主、井伊直孝なり」と名乗りました。
初代・井伊直政に次ぐ二代目彦根城主で、彼のずっとあとに安政の大
獄を取り仕切った大老・井伊直弼が生まれています。
井伊直孝は言いました。
「猫に招き入れられたおかげでこうして雨をしのぎ、貴僧の法談を聞
くことができた。これもひとえに仏の因果だろう。これを機に、いろ
いろ世話になりたい」
この時から井伊家の江戸における菩提寺はこの寺に決まりました。こ
の日以来、この寺は吉運が開き、やがて井伊家から莫大な寄進が寄せ
られ、一大伽藍を形成する立派なお寺になりました。
寺の名を「豪徳寺」といい、今の東京都世田谷区にあります。
猫はやがて死にました。しかし猫が吉運を招きいれたとしてこの寺
を人々は猫寺と呼ぶようになりました。また、和尚も猫のために墓を
建ててやりました。
さらに後生のためにこの猫の姿を再現した「招福猫」(招き猫)を作
り、家内安全・商売繁盛・心願成就を祈念するシンボルとしました。
※「招き猫」の由来については諸説あって、どれが定かなものなのか
分かりません。
※井伊家の菩提寺は彦根の「龍潭寺」と、東京の「豪徳寺」と言われ
ています。
★豪徳寺
http://www.kmine.sakura.ne.jp/tokyo/jinjyabukaku/goutokuji/goutokuji.htm
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言葉は丁寧に使おう・・・
http://mugikiri.exblog.jp/20154533/
2013-03-15T09:09:00+09:00
2013-03-15T09:17:59+09:00
2013-03-15T09:10:01+09:00
vhiko
未分類
「言葉は丁寧に使おう」
腰塚勇人(「命の授業」講演家)
『致知』2013年3月号
特集「生き方」より
......................................................................
※越塚勇人(こしづかはやと)プロフィール
1965年、神奈川県生まれ。
元・中学校体育教師。元・養護学校教師。
大学卒業後、「天職」と思えた中学校の体育教師になる。
学級担任、バスケット部顧問として「熱血指導」の日々を送る。
2002年3月1日、人生を大きく変える事故が起こる。
スキーでの転倒で「首の骨」を折り、奇跡的に命は取り止めたものの、
首から下がまったく動かなくなる。
当時、医師からは
「一生、寝たきりか、よくて車イス」の宣告を受け、
あまりの絶望に「自殺未遂」をする。
その後、妻、両親、主治医、看護師、生徒たち、
職場の同僚などの応援と励ましを受け、
「自分の命があらゆるものに助けられ、生かされていること」に気づき、
「笑顔」と「感謝」と「周りの人々の幸せを願う」ことにより、
奇跡的な回復力を発揮する。
そして、「下半身と右半身の麻痺」など、身体に障がいを残しながらも、
4ヵ月で現場に復帰し、中学3年生の担任を務める。
主治医からは「首の骨を折って、ここまで回復した人は、
治療した中では、腰塚さんだけだ」と言われるほどの「奇跡の復活」を遂げる。
その体験を「命の授業」として6分ほどの「ムービー(動画)」にして公開したところ、
30万人を超える人々の目にふれることとなる。
2010年3月に、「命の授業」の活動に専念するため、22年間務めた教員を辞職。
同年5月に『命の授業』(ダイヤモンド社)を出版。
2010年2月に『感謝の授業』(PHP研究所)を出版。
現在「命の授業」の講演家として、自らの経験を元に、
「命の尊さ」「生きていることの素晴らしさ」「ドリームメーカーの大切さ」
「命の喜ぶ生き方」を、全国の小学校、中学校、高校、
そして一般の方々に伝える活動をしている。
全国から数多くの「講演」依頼があり、講演会の参加者は、
開始からわずか2年で10万人以上にのぼる。
.......................................................................................
実は怪我をするまで、僕は競争が大好きな人間でした。
「常勝」が信条で、人に負けない生き方を
ずっと貫いていたんです。
だから「助けて」なんて言葉は口が裂けても言えない性分でした。
それが怪我ですべて人の手を借りなければ
ならなくなりました。
僕が一番したくない生き方でした。
苦しいし、泣きわめきたいし、「助けてっ!」って
言葉が口元まで出かかってくるけど、
プライドが邪魔してそれを言わせない。
ここで弱音を吐いたら、家族に余計に
心配をかけてしまうと思うと、
なおさら言えませんでした。
皆に迷惑をかけた分、なんとかしたいって
気持ちでいたんですが、そのプレッシャーや苦しさに
押し潰されそうになってしまって……
僕はとうとう舌を噛んだんです。
自分の未来に絶望感でいっぱいでした。
本当は死にたくなんてなかったんです。
でも首から下の動かない人生、
生き方が分からず苦しかったんです。
だけど結局、死に切れなかった。
あとには生きるという選択肢しかなくなりました。
じゃあ明日から前向きに生きられるかといったら、
それは無理です。
自分を押し包む苦しさが
なくなったわけではありませんからね。
次にしたことは将来を手放すことでした。
自分の将来に期待するから苦しむ。
だったらその将来を手放してしまえばいい。
周りに何を言われても無反応になりました。
そんなある晩、苦しくて寝つけないでいると、
看護師さんが声をかけてくれました。
「腰塚さん、寝ないと体がもちませんよ。
睡眠剤が必要だったら言ってね」
って。その言葉に僕の心が反応しちゃったんです。
おまえに俺の気持ちが分かってたまるかって、
無意識に彼女をグッと睨みつけていました。
その看護師さんは素敵な方でね、
僕の様子にハッと気づいてすぐに言ってくれたんです。
「腰塚さんごめんね。
私、腰塚さんの気持ちを何も考えずに、
ただ自分の思ったことを言ってたよね。
でも腰塚さんには本当に少しでも
よくなってもらいたいと思っているから……、
なんでもいいから言ってほしいです。
お願いだから何かさせてください」
看護師さん、泣きながらそう言ってくれたんです。
彼女が去った後、涙がブワッと溢れてきました。
あぁ、この人俺の気持ちを分かろうとしてくれてる。
この人にだったら俺、「助けて」って
言えるかもしれないって思えたんです。
それまで僕は周りからずっと
「頑張れ」って励まされていました。
僕のことを思って言ってくれているのが
分かるから決して言えなかったけど、
心の中は張り裂けそうでした。
俺、もう十分頑張っているんだよ……、
これ以上頑張れないんだよって……。
だから救われたんです。
あの時以来、凄く思うんです。
人の放つ一言が、人生をどうにでも
変えてしまうんだなって。
だから自分は言葉を丁寧に使おう。
言葉をちゃんと選んで、丁寧に使おうって。
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あずさからのメッセージ・・・
http://mugikiri.exblog.jp/20121724/
2013-03-08T08:51:02+09:00
2013-03-08T08:50:45+09:00
2013-03-08T08:50:45+09:00
vhiko
未分類
「あずさからのメッセージ」
是松いづみ(福岡市立百道浜小学校特別支援学級教諭)
『致知』2013年2月号
致知随想より
.........................................................................................
十数年前、障がいのある子がいじめに遭い、
多数の子から殴ったり蹴られたりして亡くなるという
痛ましい事件が起きました。
それを知った時、私は障がい児を持った親として、
また一人の教員として伝えていかなくては
ならないことがあると強く感じました。
そして平成十四年に、担任する小学五年生の学級で
初めて行ったのが「あずさからのメッセージ」という授業です。
梓は私の第三子でダウン症児として生まれました。
梓が大きくなっていくまでの過程を
子供たちへの質問も交えながら話していったところ、
ぜひ自分たちにも見せてほしいと
保護者から授業参観の要望がありました。
以降、他の学級や学校などにもどんどん広まっていき、
現在までに福岡市内六十校以上で
出前授業や講演会をする機会をいただきました。
梓が生まれたのは平成八年のことです。
私たち夫婦はもともと障がい児施設で
ボランティアをしていたことから、
我が子がダウン症であるという現実も
割に早く受け止めることができました。
迷ったのは上の二人の子たちにどう知らせるかということです。
私は梓と息子、娘と四人でお風呂に入りながら
「梓はダウン症で、これから先もずっと自分の名前も
書けないかもしれない」
と伝えました。
息子は黙って梓の顔を見つめていましたが、
しばらくしてこんなことを言いました。
さあ、なんと言ったでしょう?
という私の質問に、子供たちは
「僕が代わりに書いてあげる」
「私が教えてあげるから大丈夫」
と口々に答えます。
この問いかけによって、一人ひとりの持つ優しさが
グッと引き出されるように感じます。
実際に息子が言ったのは次の言葉でした。
「こんなに可愛いっちゃもん。
いてくれるだけでいいやん。
なんもできんでいい」。
この言葉を紹介した瞬間、
子供たちの障がいに対する認識が
少し変化するように思います。
自分が何かをしてあげなくちゃ、と考えていたのが、
いやここにいてくれるだけでいいのだと
価値観が揺さぶられるのでしょう。
さて次は上の娘の話です。
彼女が
「将来はたくさんの子供が欲しい。
もしかすると私も障がいのある子を産むかもしれないね」
と言ってきたことがありました。私は
「もしそうだとしたらどうする?」
と尋ねました。
ここで再び子供たちに質問です。
さて娘はなんと答えたでしょう?
「どうしよう……私に育てられるかなぁ。お母さん助けてね」。
子供たちの不安はどれも深刻です。
しかし当の娘が言ったのは思いも掛けない言葉でした。
「そうだとしたら面白いね。
だっていろいろな子がいたほうが楽しいから」。
子供たちは一瞬「えっ?」と息を呑むような表情を見せます。
そうか、障がい児って面白いんだ──。
いままでマイナスにばかり捉えていたものを
プラスの存在として見られるようになるのです。
逆に私自身が子供たちから教わることもたくさんあります。
授業の中で、梓が成長していくことに伴う
「親としての喜びと不安」には
どんなものがあるかを挙げてもらうくだりがあります。
黒板を上下半分に分けて横線を引き、上半分に喜びを、
下半分に不安に思われることを書き出していきます。
中学生になれば勉強が分からなくなって困るのではないか。
やんちゃな子たちからいじめられるのではないか……。
将来に対する不安が次々と挙げられる中、
こんなことを口にした子がいました。
「先生、真ん中の線はいらないんじゃない?」。
理由を尋ねると
「だって勉強が分からなくても周りの人に教えてもらい、
分かるようになればそれが喜びになる。
意地悪をされても、その人の優しい面に触れれば喜びに変わるから」。
これまで二つの感情を分けて考えていたことは
果たしてよかったのだろうかと
自分自身の教育観を大きく揺さぶられた出来事でした。
子供たちのほうでも授業を通して、
それぞれに何かを感じてくれているようです。
「もし将来僕に障がいのある子が生まれたら、
きょうの授業を思い出してしっかり育てていきます」
と言った子。
「町で障がいのある人に出会ったら
自分にできることはないか考えてみたい」
と言う子。
「私の妹は実は障がい児学級に通っています。
凄くわがままな妹で、喧嘩ばかりしていました。
でもきょう家に帰ったら一緒に遊ぼうと思います」
と打ち明けてくれた子。
その日の晩、ご家族の方から学校へ電話がありました。
「“お母さん、なんでこの子を産んだの?”と
私はいつも責められてばかりでした。でもきょう、
“梓ちゃんの授業を聞いて気持ちが変わったけん、
ちょっとは優しくできるかもしれんよ”と、
あの子が言ってくれたんです……」。
涙ながらに話してくださるお母さんの声を聞きながら
私も思わず胸がいっぱいになりました。
授業の最後に、私は決まって次の自作の詩を朗読します。
「あなたの息子は
あなたの娘は、
あなたの子どもになりたくて生まれてきました。
生意気な僕を
しっかり叱ってくれるから
無視した私を
諭してくれるから
泣いている僕を
じっと待っていてくれるから
怒っている私の話を
最後まで聞いてくれるから
失敗したって
平気、平気と笑ってくれるから
そして一緒に泣いてくれるから
一緒に笑ってくれるから
おかあさん
ぼくのおかあさんになる準備をしてくれていたんだね
私のおかあさんになることがきまっていたんだね
だから、ぼくは、私は、
あなたの子どもになりたくて生まれてきました。」
上の娘から夫との馴初めを尋ねられ、
お互いに学生時代、障がい児施設で
ボランティアをしていたからと答えたところ
「あぁ、お母さんはずっと梓のお母さんになる
準備をしていたんだね」
と言ってくれたことがきっかけで生まれた詩でした。
昨年より私は特別支援学級の担任となりましたが、
梓を育ててくる中で得た多くの学びが、
いままさにここで生かされているように思います。
「お母さん、準備をしていたんだね」
という娘の言葉が、より深く私の心に響いてきます。
]]>
不変の鉄則・・・
http://mugikiri.exblog.jp/20026527/
2013-02-19T08:37:12+09:00
2013-02-19T08:37:07+09:00
2013-02-19T08:37:07+09:00
vhiko
未分類
大きな成功を遂げた人は
失敗を自分のせいにし、
失敗者は失敗を人や運命のせいにする、
その態度の差は
人生の大きな差となって現れてくる。
by幸田露伴著『努力論』
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『掃除道』(鍵山秀三郎著)から・・・
http://mugikiri.exblog.jp/19994348/
2013-02-14T10:45:59+09:00
2013-02-14T10:46:02+09:00
2013-02-14T10:46:02+09:00
vhiko
未分類
中国の大学のトイレ掃除の後、
学生さんと先生を対象に講演させていただきました。
その後の質疑応答で、生徒から質問がありました。
そのなかの一つ、
立派な体格をした学生からの質問は
「私は大きなことをやるために大学へ来て勉強しています。
掃除のような誰にも顧みられない小さなことにこだわっていては、
大きなことができないのではないでしょうか」というものでした。
そこで私はその学生に、
「あなたは、大勢の人が見ている前で、
道に落ちている一本のタバコの吸殻を拾うことができますか」と尋ねたところ、
「拾えません」「恥ずかしいから、とてもできません」という返事でした。
「私は、毎朝、大勢の目の前で、ゴミ拾いをやっています。
なんとなく気恥ずかしいのはわかります。
その人たちの足元に落ちている吸殻を拾うには、相当抵抗があります。
しかし、人間というのは、そうした抵抗を超えていくことで心が鍛えられ、
より成長できるものだと思います。
ですから、吸殻を一日に少しずつでも拾って歩けば、
そのたびに大きな勇気が得られることになります。
私は、この吸殻や空き缶などをただ拾うことだけが目的ではなく、
日本をゴミ一つない国にしたいと思っています。
これを小さなことだと思いますか?」と尋ねました。
学生は即座に「大きいことだと思います」と明快にいってくれました。
「そうでしょう。やっている行為は小さく見えても、実は大きな意味があるんです」
とお話ししました。
小さなことでも、それを実行するには大きな勇気が要ります。
ですから、道に落ちているゴミも、
日々自分を鍛えてくれる大事な条件だと考えることもできるのです。
※『掃除道』(鍵山秀三郎著)より
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魂を磨く・・・
http://mugikiri.exblog.jp/19855811/
2013-01-18T09:09:05+09:00
2013-01-18T09:08:18+09:00
2013-01-18T09:08:18+09:00
vhiko
未分類
魂を磨く
醍醐千里氏の心に響く言葉より…
この世でたった一人の大切なあなたへ
.....................................................
『魂の約束』
私たちは生まれるとき、神様から魂をいただきました。
みんなその魂を、自分の真ん中においています。
魂は磨けば磨くほど光ります。
漢字の練習を一生懸命しました。
魂は昨日より光ります。
電車でおじいさんに席をゆずりました。
魂は昨日より光ります。
弟におやつをあげました。
魂は昨日より光ります。
今日はごめんねが言えました。
魂は昨日より光ります。
あの人にありがとうが言えました。
魂は昨日より光ります。
努力をすることや、誰かや何かに優しくすることは、魂を磨きます。
けれど 、努力をすることや、優しくすることだけではなく、
楽しいこと、うれしいことも、 魂を光らせることが分かりました。
友だちと楽しく大笑い。
魂は昨日より光ります。
誕生日のプレゼント。
魂は昨日より光ります。
楽しいことやうれしいことも魂を磨くと知って、 私はなんだかホッとしました。
ある日、そうじをさぼって友だちと遊びました。
友だちと楽しく大笑い。
けれどその日、自分の中の魂を見て驚きました。
あんなに楽しく笑ったあとだったのに、 魂は、光るどころかくもっているのです。
ある日、友だちからネックレスをもらいました。
お店から盗ってきたネックレスだと言います。
ほしかったものなので、 よく考えもせずにそれを受け取りました。
その夜、魂を見てみたら、その日もまた魂は、 昨日よりくもっていました。
ある日、一人が言いました。
「ねぇ、あの子、気に入らないよね?」
あっという間に、その子はひとりぼっちになりました。
私は、その子をひとりぼっちにさせる側にいました。
その輪の中で私には、急に仲間が増えました。
新しくできた仲間とともに、 おもしろおかしく過ごしました。
そんな日々を送る中、 私は久し振りに、自分の中の魂を見てみました。
私の魂は真っ黒になっていました。
私は、自分の魂の色を見て、 とてもおそろしくなりました。
楽しいこと、うれしいことの中にも、 魂をくもらせること、 魂を濁らせることもあると分かりました。
楽しいこと、うれしいことには、 2種類あると分かったので、
これからは、 気をつけていかなければならないと思いました。
毎日魂を磨き、 毎日魂の様子を見ているうちに、 私は不思議なことに気がつきました。
磨いたつもりのない日でも、 魂の輝きが、増しているときがあるのです。
そういう日の一日を振り返ってみると、 その日は、きれいな花を見たり、
美しい夕焼けを見たり、 そういう日だったことが分かってきました。
映画を見たり、本を読んだり、音楽を聴いたり。
そういうことでも魂を、磨くことができるのです。
楽しいことやうれしいこと、 目にした景色や、聞こえてくるメロディ、あたたかな言葉。
その日その日のなんでもないことも、 私の魂を磨き続けてくれたのです。
できるだけ魂を光らせようと、毎日を送っていましたが、
ある日、私は少しだけ疲れてしまいました。
夢の中で私は、神様に会いました。
夢の中で私は、神様に聞いてみました。
神様、私はいつまで魂を磨けばいいのですか。
私の魂は、いつ完璧に美しくなるのですか。
神様は言いました。
あなたは、あなたの最後のひと呼吸まで、 魂を磨き続けなさい。
みんなその約束をして、地上に生まれているのですよ。
でも、神様、磨き終わらないうちに、 最後のひと呼吸がきたら、 どうすればよいのですか。
心配しなくて大丈夫。
あなたの魂は、最後のひと呼吸のとき、 必ず、最高の光を放ちます。
神様、私にはその自信がないのです。
あなたは、毎日魂を磨いています。
だから大丈夫。
最後のひと呼吸のとき、 魂はそれまでで一番美しい姿を見せてくれます。
何も心配いりませんよ。
あなたの魂は毎日、昨日より輝きを増しているのです。
ときどき、自分の魂を、離れたところから見てごらんなさい。
あなたの魂があなたの体を越えて、 まわりに光を与えていることにも、 気づくことができるでしょう。
このごろでは、あなたの魂の輝きで、 道を明るくする人も増えてきました。
さぁ、戻って、魂を磨いてきなさい。
毎日を楽しくうれしく感謝の気持ちで送るのですよ。
そうするとあなたの魂は、キラキラと光を強くしていきます。
あなたがここに来るのは、まだまだずっとずっと先。
あなたの人生を、楽しんでいらっしゃい。
あなたがどんなに素晴らしい魂を持って、ここに帰ってくるか、
私はそれを楽しみにしています。
目が覚めた私は、 それまで気づかなかったことに気づきました。
昨日より今日。
今日より明日。
私の魂は輝きを増し続け、毎日新しく生まれ変わります。
そして必ず、その日の魂が1番光る魂。
少しの努力、優しい気持ち、そして うれしいこと、楽しいこと。
日々の中に散りばめられた美しいもの。
神様との約束を思い出したので、 私は、なんにも心配しないで、
毎日を送っていくことができそうです。
なんにも心配しなくても、 私の魂は、昨日より光ります。
光り続けます。
※出典:メルマガ【人の心に灯をともす】より
『魂の約束』サンマーク出版
醍醐千里さんは、二人の子どもを持つ中学校の教員。
新米教師の頃は、生徒との関係も、授業もうまく行かず、
朝起きるのも、教室のドアを開けるのもつらくなってしまったという。
29歳で二人の子の母となり、二度の育児休暇中に母親業に徹することで、
教員の在りかたに親としての視点が持てるようになり、
その結果学校での姿勢も少しずつ変わっていった。
その頃から、奇跡が訪れるようになった。
行事やクラスのトラブルに、大どんでん返しのミラクルが起こりうまくいくようになった。
教員だった両親が教えてくれた言葉、「正しいと思うことを貫く姿勢」「自分の心を磨くこと」、
この二つを胸に、がむしゃらに突き進んだ。
(以上、「魂の約束」より抜粋)
そんなときに、「クラスの子どもたちが卒業するまでにもう時間がない。
離れてしまう前に、今まで伝えてきたすべてのことを1つの詩にしよう」と
廊下のベンチに座って書いた詩がこれだ。
「魂は磨けば磨くほど光る」
一生涯かけて、自分の魂を磨き続けたい。
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我々はたくさんの美しいものを見過ごしている・・・
http://mugikiri.exblog.jp/19852211/
2013-01-17T16:04:07+09:00
2013-01-17T16:05:10+09:00
2013-01-17T16:05:10+09:00
vhiko
未分類
ある寒い1月の朝、
一人の男がワシントンD.C.の駅で座りながらバイオリンを弾き始めました。
彼はバッハの曲を1時間程演奏しました。
その時間帯は通勤ラッシュだったため、
約1100人がその男の前を通りました。
3分後、ある中年の男はバイオリンを弾いている人がいると気づき、足を止めました。
しかし、結局止まったのはほんの僅かな時間で、数秒後にはその場を離れました。
1分後、バイオリニストはやっとお金を稼ぐことができました。
ある女性がケースに1ドル札を投げ入れましたが、
彼女は止まることなく歩き続けました。
少しした後、壁に寄りかかって彼の音楽を聴く者が現れましたが、
腕時計を見るとすぐに歩き始めました。
会社に遅刻しそうだったのです。
一番彼の音楽が気になったのは、3歳の男の子でした。
彼のお母さんは急いでいて、男の子の腕を強く引っ張りました。
それでも男の子はバイオリニストを聞こうと足を止めます。
お母さんは男の子の背中を強く押し、無理やり歩かせました。
それでも男の子はずっと後ろのバイオリニストを見ながら去って行きました。
他の子供も同様でしたが、親は全員例外なく止まることなくその場を去りました。
彼が演奏した一時間内で、足を止めて彼のバイオリンを聞いたのはたった6人でした。
お金を入れてくれたのは20人程でしたが、止まった人は誰もいませんでした。
稼いだお金はたったの32ドル。
彼が演奏をやめ、駅が沈黙に包まれた時、気付いた人は誰一人いません。
拍手はなく、このバイオリニストを認める人はいなかったのです。
バイオリニストの名前はジョシュア・ベル。
彼は世界で最も才能のあるミュージシャンの一人です。
彼はたった今、歴史に残る傑作を演奏したのです。
それも3億円のバイオリンを使って。
彼の駅での演奏の二日前、彼のボストンでのコンサートのチケットは、
一枚一万円するものの全て売り切れました。
これは実際にあった話です。
ジョシュア・ベルが素性を明かさず行ったこの演奏は、
人々の視覚・嗜好・優先順位を研究するための実験として
ワシントン・ポスト紙によって行われました。
私たちは本当に「美しさ」を理解しているのだろうか?
それをちゃんと足を止めて味わっているのだろうか?
予想していない状況でも、才能を感じ取ることはできるのだろうか?
一つ結論として言えるのは、
もし私達は世界で最も才能のあるミュージシャンが、
歴史上一番の傑作を演奏してさえ気付かないのであれば、
私達は他にもきっと多くの「美しいもの」を見過ごしているのではないか?
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「おかげさま」と「身から出たサビ」・・・
http://mugikiri.exblog.jp/19847308/
2013-01-16T16:53:49+09:00
2013-01-16T16:53:05+09:00
2013-01-16T16:53:05+09:00
vhiko
未分類
「おかげさま」と「身から出たサビ」
山中伸弥(ノーベル医学・生理学賞受賞者)
この頃(中学生)、特に忘れられない思い出があります。
教育大学の学生さんが教育実習に来た時のことです。
彼は柔道三段という腕前でした。
その人と練習で組み合うと、いとも簡単に投げられる。
受け身を取って一本にされるのは悔しいので、
私はちゃんと受け身を取らずに最後まで粘り、
変な手の付き方をしてしまった。
そのために、腕がボキッと折れてしまったのです。
実習の先生としてみれば、大変なことです。
部活動をしている最中に、生徒の腕を自分のせいで
折ってしまったのですから。
その日の夜、慌てたように先生から電話がありました。
電話を取ったのは母ですが、そばで聞いていると、
先生は受話器の向こう側で平謝りをしている様子でした。
しかし母はその時、こう答えたのです。
「いやいや先生、気にしないでください。
うちの息子の転び方が悪かったんだと思います。
怪我したのはうちの息子のせいです。
明日からも気にせず、いろんな子を投げ飛ばしてください」
その時の態度は、わが親ながら立派だと感じたものです。
母親からはあまり教えられたことはありませんが、
その出来事以来、私はいつも次のことを心掛けるようにしています。
何か悪いことが起こった時は「身から出たサビ」。
つまり自分のせいだと考える。
先生に投げられた時、自分がちゃんと受け身さえしておけば
怪我をしなかった。
そのために三か月ほど柔道ができなくなりましたが、
それも身から出たサビなのだと。
逆に、いいことが起こった時は「おかげさま」と思う。
確かに、自分が努力をしたためにうまくいくことはありますが、
実はその割合は少なくて、周りの人の助けがあって
初めて物事はうまくいくものなのだと思います。
※出典:『夢を実現する発想法』(致知出版社)より
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泥かぶら・・・(再アップ)
http://mugikiri.exblog.jp/19542886/
2012-11-22T16:43:20+09:00
2012-11-22T16:43:33+09:00
2012-11-22T16:43:33+09:00
vhiko
未分類
演劇「泥かぶら」をご存じでしょうか。
昭和27年の初演以来、
国内外で7000回以上も上演されている名作。
心洗われる美しい劇です。
今日は、そのストーリーをご紹介します。
少し長いので時間のあるときに
ゆっくり読んでください。
..................................................................
昔、ある村に顔の醜い少女がいました。
孤児で、家もなく、
森の落葉の中にもぐり、橋の下に寝る。
色は真黒、髪はボウボウ。
着物はボロボロ、身体は泥だらけ。
少女は、その醜さゆえに、
「泥かぶら」と呼ばれていました。
子どもからは石を投げられ、
唾を吐きかけられ、
泥かぶらの心はますます荒み、
その顔はますます醜くなっていくばかりです。
「あたしはこれからどうしたらいいの…」
夕日を見ながら、悲しくなり考え込むのです。
ある日のことです。
泥かぶらがいつものように荒れ狂い、
「美しくなりたい!」と叫んでいるところへ
旅の老法師が通りかかりました。
「これこれ、泥かぶらよ。
そんなにきれいになりたいと泣くのなら、
その方法を教えてしんぜよう。」
「3つある。
まず1つは、自分の醜さを恥じないこと。
2つ目は、いつもにっこりと笑っていなさい。
そして3つ目は、人の身になって思うことじゃ」
泥かぶらは、激しく心を動かされます。
というのも、それらは、今までの自分と
まったく正反対の生き方だったからです。
「この3つを守れば村一番の美人になれる」
法師の言葉を信じた泥かぶらは、
その通りの生き方をしはじめます。
しかし、急に態度の変わった泥かぶら見て、
村人は不審に思うばかりか、
嘲笑し、中傷するのです。
ある時、事件が起こります。
事の発端は、村一番の美人で
一番お金持ちの庄屋の子、こずえでした。
彼女がどうしたことか、
「助けて」と叫んで、
泥かぶらのところに走って来たのです。
こずえは、日頃から泥かぶらを
嫌っていじめていた者の一人です。
何かわけがあるに違いありません。
果たして、こずえの後ろから、
父親の庄屋が鞭を持ってやって来ました。
庄屋は、命よりも大切にしていた
茶器を割られたことで、
怒り心頭に達していました。
「泥かぶらが、割ったんだ」
父親の怒りを逃れるために、こずえは、
日頃から評判の悪い泥かぶらに
罪を着せていたのです。
怒り狂ったような庄屋は、
娘の言うことを信じて疑いません。
泥かぶらを見つけると、
容赦なく鞭で打って、
折檻(せっかん)をし始めました。
泥かぶらは、すべてを悟り、
黙ってその鞭を受けました。
「人の身になって思うこと」
という法師のあの言葉を思い出し、
「助けて」と頼んだこずえの願いを
聞き入れたのです。
何度も何度も鞭で叩かれ、
ひどい言葉を浴びせられながらも、
泥かぶらはこずえを助けるために、
最後まで耐え忍びました。
「もうやめよう。
お坊様がおっしゃった3つの言葉、
あんなことで私は良くなるとは思えない」
泥かぶらが全身ボロボロになって、
また丘の上の夕陽を見ながら泣いていた時でした。
後ろからそっとやってきた人がいます。
こずえでした。
「助けてくれてありがとう。
本当に悪い事をした。
これは私の宝物だから、
あんたに、もらってほしい」
そして、自分が一番大事にしていた
櫛(くし)を差し出したのです。
この時、泥かぶらは
自分が報いられたことを知りました。
生まれて初めての経験に、
泥かぶらは声をふるわせながら、
こずえに言います。
「その櫛はいらないから、
その心だけでいいから・・・
どうかこれからあたしと、仲良くして・・・」
こずえは泣きながらうなずきました。
そして、泥かぶらの頭の泥を払い、
櫛で髪の毛をすいてあげて
かたわらの花を挿してあげるのでした。
それからです。
泥かぶらの人生が好転していったのは・・・。
村人たちの泥かぶらへの評価が
どんどん良くなっていきます。
そうなればなおさら、
泥かぶらはお坊さんの3つの言葉を
さらに実践していきます。
喘息持ちの老人には
山奥に入って薬草を取って持ってきたり、
子供が泣いていたら慰めてやったり、
子守りをしてやったり、
人の嫌がることでもニコニコしながら
次から次にしていきます。
すると、心も穏やかになっていき、
あれほど醜かった表情が
消えてなくなっていきました。
村人のために労をいとわずに働く泥かぶらは、
次第に、村人にとって
かけがえのない存在になっていったのです。
ところが、そんなある日、
村に恐ろしい「人買い」がやってきました。
人買いは借金のかたに、
一人の娘を連れていこうとします。
泥かぶらと同じ年の親しい娘です。
「いやだ、いやだ」と
泣き叫ぶ娘の姿を見ていた泥かぶらは、
人買いの前に出て、
自分を身代わりにしてくれと頼みます。
こうして、売られていく泥かぶらと
人買いとの都への旅がはじまります。
そんな時でも泥かぶらは、
法師の3つの言葉を忘れませんでした。
・自分の顔を恥じない。
・どんな時にもにっこり笑う。
・常に相手の身になって考える。
ですから、旅の途中、
毎日毎日、何を見ても素晴らしい、
何を食べても美味しいと喜びます。
どんな人に会っても、
その人を楽しませようとします。
「売られて行くというのに、
おまえはどうしてそんなに
明るくしていられるのだ」
不思議がる人買いに、泥かぶらは、
自分の心にある美しく、楽しい思い出だけを、
心から楽しそうに話して聞かせるのでした。
そんな泥かぶらの姿に人買いは、
激しく心を揺さぶられます。
親に捨てられ、
家もない娘が不幸でなかったはずはない。
それなのに、誰に対しても恨みごとを言わず、
むしろ村人たちに感謝さえしている。
そして、この自分に対しても、
楽しい話ばかりして喜ばせようとしてくれている。
それに引きかえ、それに引きかえ・・・
ああ、自分のこれまでの生き様はなんだったのか・・・。
月の美しい夜でした。
人買いは、泥かぶらに
置き手紙を残してそっと姿を消します。
手紙にはこんな言葉が書かれていました。
「私はなんてひどい仕事をしていたのだろう。
お前のおかげで、
私の体の中にあった仏の心が目覚めた。
ありがとう。
仏のように美しい子よ」
泥かぶらはそのときはじめて、
法師が自分に示してくれた、
教えの意味を悟り、涙するのです。
・・・というお話。
わたしたちは、
自分の運命を変えることができるんですね。
自分の何かを変えることによって・・・
.............................................
「泥かぶら」への言葉
・自分を恥じない。
・人に笑顔で接する。
・人の立場になって考える。
演劇「泥かぶら」について
http://www.shinseisakuza.com/newpage104.html
作者、眞山美保さんの言葉
「人間は本来、美しく豊かに生きることを愛しているのです。
そしてまた、それを主張する権利をもっているのです。」
※メルマガ「心の糧・きっとよくなる!いい言葉」
07.1.7 Vol.274 より転載。
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詩人ハリール・ジブラーンの詩 ・・・
http://mugikiri.exblog.jp/19535999/
2012-11-21T13:23:05+09:00
2012-11-21T13:22:39+09:00
2012-11-21T13:22:39+09:00
vhiko
未分類
あなたの子どもは、あなたの子どもではありません。
彼らは生命そのものが望んだ息子や娘なのです。
あなたを通ってやって来ますが、あなたからやって来るのではありません。
あなたといっしょにいますが、あなたのものではないのです。
子どもに愛を注いでもよいでしょう。
でも、考えを与えてはいけません。
子どもには子どもの考えがあるからです。
あなたの家に子どもの体を住まわせてもよいでしょう。
でも、その魂を住まわせてはいけません。
子どもの魂は明日の家に住んでいて、
あなたは夢の中でさえ、そこに立ち入ることはできないからです。
子どものようになろうと努めてもよいでしょう。
でも、子どもをあなたのようにしようとしてはいけません。
生命は後戻りせず、昨日とともにとどまってもいないからです。
あなたは弓です。
その弓から、子どもは生きた矢となって放たれます。
射手は果てしなく続く道にある的を見つめ、
矢がすばやく、遠くへと飛んでいけるように、
力いっぱいあなたをしならせます。
射手の手の中でしなることを喜びましょう。
なぜなら、射手が、飛んでいく矢を愛しているなら、
同じようにとどまる弓も愛しているのですから。
byハリール・ジブラーン
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京セラ創業期秘話・・・
http://mugikiri.exblog.jp/18909912/
2012-08-31T09:33:10+09:00
2012-08-31T09:32:58+09:00
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vhiko
未分類
「京セラ創業期秘話」
稲盛和夫(京セラ・日本航空名誉会長)
『人生と経営』より
創業して3年目(昭和36年)の5月、
会社は順調に発展していたが、私は自分の考えを
根底から覆されるような事件に遭遇した。
研究者として、自分の開発したファインセラミック技術を
世に問いたいということが、会社設立にあたっての
直接の動機であったが、そのような私の姿勢を
根本的に見直さなければならなくなったのである。
前年春に採用した高卒男子11人が、
血判まで捺した要求書を持って、
私に団交を申し入れてきた。
要求書には、定期昇給やボーナスの保証などの
要求が記さている。
彼らは、その要求書を私に突きつけて、
「会社が将来、どうなるのかわからず、不安でたまらない。
毎年の昇給とボーナスの保証をしてほしい。
もし、保証できなければ、
いつまでもこの会社に勤めるわけにはいかない」
と言う。
私には、とても彼らの要求をのむことはできなかった。
初年度から黒字を出すことができたとは言え、
会社はいまだ手探りの状態で、明日のことなど皆目わからない。
1年先の保証すら請け合えるものではなかった。
しかし、彼らは自分たちの要求が聞き入れられなければ、
全員が辞めると言う。
会社で話し合っても埒(らち)があかないので、
私はその頃住んでいた京都、嵯峨野の市営住宅に
場所を移して話し合いをつづけた。
「先々の給料やボーナスを保証しろというが、
今日どうやって飯を食おうかと日々悪戦苦闘しているのに、
そんなことができるわけがないじゃないか。
君たちを採用するとき、
『できたばかりの会社で、今は小さいが、
一緒に頑張って大きくしていこう』と言ったはずだ。
だから、なんとしても会社を立派にして、
将来みんなで喜びを分かち合えるような会社にしたいと考え、
このように毎日頑張って仕事をやっているのじゃないか」
私は、このように彼らに話し、懸命に説得を続けたが、
当時は社会主義的な思想が蔓延し、
労使の対立という枠組みの中でしか、
ものごとを見ない風潮があった。
そのため、経営者はいつも、そんなまやかしを言って、
労働者をだます。やはり、給与や賞与を
保証してもらわなければ安心して働けない」
と、夜が更けても頑として納得しない。
結局、3日3晩ぶっつづけで話し合うことになった。
3日目に私は覚悟を決めて言った。
「約束はできないが、私は必ず君たちのためになるように
全力を尽くすつもりだ。
この私の言葉を信じてやってみないか。
今会社を辞めるという勇気があるなら、
私を信じる勇気を持ってほしい。
私はこの会社を会派にするために命をかけて働く。
もし私が君たちを騙していたら、私は君たちに殺されてもいい」
ここまで言うと、私が命懸けで仕事をし、
本気で語りかけているのがようやくわかったのか、
彼らは要求を取り下げてくれた。
しかし、彼らと別れて一人になったとたん、
私は頭を抱え込んでいた。
経営者である自分自身でも明日のことが見えないのに、
従業員は経営者に、自分と家族の将来にわたる
保証を求めていることを、初めて心の底で理解したからである。
私は、このことに気がつくと、
「とんでもないことを始めてしまった」と
思わざるをえなかった。
本来なら無理をして私を大学までいかせてくれた、
鹿児島にいる両親や兄弟の面倒をまず見るべきなのに、
それさえ十分にできていない私が、
経営者として赤の他人の給料だけでなく、
彼らの家族のことまでも考え、将来を保証しなければならない。
会社創業のとき、私が抱いていた夢は、
自分の技術でつくられた製品が、
世界中で使われることだった。
しかし、そんな技術屋の夢では、
従業員の理解は得られず、
経営は成り立たないということを、
この事件を通して初めて身に泌みて理解することができた。
会社とは何か、会社の目的とは何かということについて、
このとき改めて私は真剣に考えさせられた。
会社とは経営者個人の夢を追うところではない。
現在はもちろんのこと、将来にわたっても
従業員の生活を守るための場所なのだ。
私はそのとき、このことに気づき、
これからは経営者としてなんとしても、
従業員を物心両面にわたって幸せにすべく、
最大限の努力を払っていこうと決意したのである。
さらに、経営者としては、自社の従業員のことだけでなく、
社会の一員としての責任も果たさなくてはならない。
そこまで考えを進めたとき、
「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、
人類、社会の進歩発展に貢献すること」
という京セラの経営理念の骨格ができあがっていた。
突然の反乱劇で、そのときは驚き、悩み苦しんだが、
おかげで私は若いうちに経営の根幹を理解することができたと思う。
それは、経営者は自分のためではなく、社員のため、
さらには世のためにという考え方をベースとした経営理念を
持たなくてはならないということである。
これを創業3年目という早い時期から経営の基盤に置いた結果、
京セラはその後大きく発展することができたのだと私は考えている。
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あるレジ打ちの女性・・・
http://mugikiri.exblog.jp/18796147/
2012-08-08T09:25:00+09:00
2012-08-08T09:31:12+09:00
2012-08-08T09:25:09+09:00
vhiko
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その女性は何をしても続かない人でした。
田舎から東京の大学に来て、サークルに入るものの、
すぐにイヤになって所属を変えるような人だったのです。
そんな彼女にも、やがて就職の時期が来ます。
最初の就職先はメーカー系企業。
しかし、勤め始めて3ヵ月で上司と衝突し、辞めてしまいます。
それ以降に就職する会社も「つまらない」、「やりたくない」、
「私のやりたかったことじゃない」と就職しては辞めてしまうの繰り返しでした。
そうしたことをくりかえしていくうちに、
彼女の履歴書には入社と退社の繰り返しとなってしまい、
ついに、彼女を正社員として雇ってくれるところはなくなってしまったのです。
生活のためには働かなくてはならない!
結局、彼女は派遣会社に登録するのでした。
ところが派遣も勤まりません。
派遣先の社員とトラブルを起こしては辞めてしまう....
彼女の履歴書には辞めた派遣先のリストが長々と追加されるのでした。
そんな日々が続いたある日のことです。
彼女に新しい仕事がやって来ました。
スーパーのレジ打ちの仕事です。
当時のレジは今のような商品をかざせば値段を入力できるものではなく、
いちいち値段をキーボードに打ち込まなければならず、タイピングの訓練を必要としたものでした。
ところが、勤めて1週間もするうちに
「私はこんな単純作業のためにいるのではない」と考えるようになったのです。
そんなことを思っていた矢先、彼女のお母さんから電話がかかってきました。
「帰っておいでよ」
受話器の向こうからお母さんのやさしい声が聞こえてまいりました。
母の一言に決心し、辞表を書き、荷物をまとめ出したとき、
机の引き出しの奥から1冊のノートを見つけたのでした。
小さい頃に書きつづった大切な日記でした。
そのノートに
「ピアニストになりたい」とはっきりと書かれていたページを彼女は見つけたのでした。
彼女が唯一続けられたもの、それがピアノの練習でした。
「いままたいやになって逃げ出そうとしている」....
そして思い起こしたかのように、お母さんに泣きながら電話するのです。
「お母さん、私、もう少しここでがんばる」と....
彼女は辞表を破り捨て、翌日も単調なレジ打ちの仕事をするために出勤するのでした。
とある時、「2、3日でもいいから」とがんばっていた彼女に、ふとある考えが浮かびます。
「ピアノを練習していくうちに鍵盤を見ずに、楽譜を見るだけで弾けるようになった。」と....
そして、心に決めたのです。
「そうだ、私流にレジ打ちを極めてみよう!」
彼女はキーの配置を覚え、ピアノを弾く気持ちでレジを打ち始めました。
すると、不思議なことに、これまでレジしか見ていなかった彼女は、
今まで見もしなかったところへ目をいくようになったのです。
最初に目に映ったのはお客さんの様子でした。
「ああ、あのお客さん、昨日も来ていたな」
「ちょうどこの時間になったら子ども連れで来るんだ」
「この人は安売りのものを中心に買う」
「この人は高いものしか買わない」など....
そんなある日、いつも期限切れ間近の安い物ばかりかうおばあちゃんが
5000円もする尾頭付きの立派なタイをカゴに入れてレジへ持ってきたのです。
彼女はびっくりして、思わずおばあちゃんに話しかけました。
「今日は何かいいことがあったのですか」
「孫がね、水泳の賞を取ったんだよ」
「いいですね。おめでとうございます」
これがきっかけで、彼女はたくさんのお客様とお話ができるようになったのです。
ある日のことでした。
「今日はすごく忙しい」と思うほど、忙しい日でした。
そして店内放送が響きました。
「本日は込み合いまして大変申し訳ございません。どうぞ空いているレジにお回りください」
ところが、わずかな間をおいて、また放送が入ります。
「本日は込み合いまして大変申し訳ございません。
重ねて申し上げますが、どうぞ空いているレジにお回りください」
そして3回目、同じ放送が聞こえてきた時に、初めて彼女はおかしいと気ついたのです。
そして周りを見て驚きました。
お客様は自分のレジにしか並んでいなかったのです。
店長はお客様に「どうぞ空いているあちらのレジへお回りください」と言った、その時でした。
「私はここへ買い物に来ているんじゃない。あの人としゃべりに来ているんだ。
だからこのレジじゃないとイヤなんだ」
その瞬間、彼女はワッと泣き崩れました。
その姿を見て、お客様が店長に言いました。
「そうそう。私たちはこの人と話をするのが楽しみで来てるんだ。
今日の特売はほかのスーパーでもやってるよ。だけど私は、
このおねえさんと話をするためにここへ来ているんだ。
だからこのレジへ並ばせておくれよ」
彼女はポロポロと泣き崩れたまま、レジを打つことができませんでした。
仕事というのはこれほど素晴らしいものだと、初めて気ついたのです。
そうです。すでに彼女は、昔の自分ではなくなっていたのです。
※出典:「涙の数だけ大きくなれる!」
木下晴弘著(フォレスト出版)]]>
母親の愛・・・
http://mugikiri.exblog.jp/18759132/
2012-08-01T10:02:30+09:00
2012-08-01T10:02:18+09:00
2012-08-01T10:02:18+09:00
vhiko
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「母親の愛について想う」
徳増幸雄(福岡県警元総務部長)
『致知』2012年5月号
致知随想より
私が福岡県のC警察署で署長を務めていた
平成18年の出来事です。
管内の山中で30歳代の女性の自殺遺体が
発見されたとの報告を受けました。
家出人捜索願が出ていたので、すぐに身元が判明しました。
その方は家庭内の不和で、悩んだ末に
幼い2人の娘さんを残して家出、
マイカー内で練炭自殺を図ったのです。
警察は、医師が看取った遺体以外、病死、自殺、事故死など
すべての遺体を検視しなくてはいけません。
犯罪の疑いがある場合は司法解剖をします。
核家族の増加により一人で亡くなる方も増え、
私たちの管轄する地域でも年間300体以上を検視してきました。
綺麗な遺体ばかりではありません。
焼死体、轢(れき)死体、腐乱死体、水死体など
思わず目を覆いたくなるものもありますが、
刑事たちは礼を失することなく淡々と検視に当たります。
検視のたびに感情移入していていては
PTSD(心的外傷後ストレス障碍)になってしまいますし、
冷静さを失えば犯罪死体を見逃すことになりかねないからです。
警察官は誰に教わるともなく、心に鎧を着せて、
この辛い仕事と向き合うことを覚えていきます。
ところが、この練炭自殺を図った女性を検視した時、
いつも冷静な刑事課員たちの様子が少し違いました。
皆目を真っ赤にしているのです。
いぶかしく思った私は、責任者の係長に
「どうしたんだ」と聞きました。
「署長、これを見てください」
刑事係長は、女性の遺体とともに発見された
1枚の写真を差し出しました。
遺体発見直後、女性が右手に何かを
力強く握りしめていることに気づいた刑事課員が
硬直した指を広げると、ビニールに丁寧に包まれた
プリクラ写真があったといいます。
そこに写っていたのは、自殺した女性と
2人の娘さんの笑顔の姿だったのです。
「このお母さん、いったいどんな思いで
死んでいったのでしょうか」
係長は泣きながらそう説明しました。
刑事も自分の子や母のことを思ったに違いありません。
1枚の写真が刑事たちの心の蓋を外してしまいました。
私もその写真を見た途端、すべてを理解し涙が溢れました。
私は
「このことをご遺族、とりわけ2人の娘さんには
必ずお知らせするように」
と指示して遺体安置室を出ました。
自分たちを置いて家出をしたお母さんを
恨んでいるかもしれない娘さんたちに、
少なくとも母親が子供たちのことを思いながら
死んでいったことを知ってほしいと思ったのです。
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子どものために・・・そして奇跡が・・・
http://mugikiri.exblog.jp/18499451/
2012-06-27T14:34:18+09:00
2012-06-27T14:34:15+09:00
2012-06-27T14:34:15+09:00
vhiko
未分類
「お母さんから命のバトンタッチ」
鎌田實(諏訪中央病院名誉院長)
『致知』2012年7月号
読者の集いよ
僕が看取った患者さんに、
スキルス胃がんに罹った女性の方がいました。
余命3か月と診断され、
彼女は諏訪中央病院の緩和ケア病棟にやってきました。
ある日、病室のベランダでお茶を飲みながら話していると、
彼女がこう言ったんです。
「先生、助からないのはもう分かっています。
だけど、少しだけ長生きをさせてください」
彼女はその時、42歳ですからね。
そりゃそうだろうなと思いながらも返事に困って、
黙ってお茶を飲んでいた。すると彼女が、
「子供がいる。子供の卒業式まで生きたい。
卒業式を母親として見てあげたい」
と言うんです。
9月のことでした。
彼女はあと3か月、12月くらいまでしか生きられない。
でも私は春まで生きて子供の卒業式を見てあげたい、と。
子供のためにという思いが何かを変えたんだと思います。
奇跡は起きました。
春まで生きて、卒業式に出席できた。
こうしたことは科学的にも立証されていて、
例えば希望を持って生きている人のほうが、
がんと闘ってくれるナチュラルキラー細胞が
活性化するという研究も発表されています。
おそらく彼女の場合も、希望が体の中にある
見えない3つのシステム、内分泌、自律神経、免疫を
活性化させたのではないかと思います。
さらに不思議なことが起きました。
彼女には2人のお子さんがいます。
上の子が高校3年で、下の子が高校2年。
せめて上の子の卒業式までは生かしてあげたいと
僕たちは思っていました。
でも彼女は、余命3か月と言われてから、
1年8か月も生きて、2人のお子さんの卒業式を
見てあげることができたんです。
そして、1か月ほどして亡くなりました。
彼女が亡くなった後、娘さんが僕のところへやってきて、
びっくりするような話をしてくれたんです。
僕たち医師は、子供のために生きたいと
言っている彼女の気持ちを大事にしようと思い、
彼女の体調が少しよくなると外出許可を出していました。
「母は家に帰ってくるたびに、
私たちにお弁当を作ってくれました」
と娘さんは言いました。
彼女が最後の最後に家へ帰った時、
もうその時は立つこともできない状態です。
病院の皆が引き留めたんだけど、どうしても行きたいと。
そこで僕は、
「じゃあ家に布団を敷いて、
家の空気だけ吸ったら戻っていらっしゃい」
と言って送り出しました。
ところがその日、彼女は家で台所に立ちました。
立てるはずのない者が最後の力を振り絞ってお弁当を作るんですよ。
その時のことを娘さんはこのように話してくれました。
「お母さんが最後に作ってくれたお弁当はおむすびでした。
そのおむすびを持って、学校に行きました。
久しぶりのお弁当が嬉しくて、嬉しくて。
昼の時間になって、お弁当を広げて食べようと思ったら、
切なくて、切なくて、
なかなか手に取ることができませんでした」
お母さんの人生は40年ちょっと、とても短い命でした。
でも、命は長さじゃないんですね。
お母さんはお母さんなりに精いっぱい、必死に生きて、
大切なことを子供たちにちゃんとバトンタッチした。
人間は「誰かのために」と思った時に、
希望が生まれてくるし、その希望を持つことによって
免疫力が高まり、生きる力が湧いてくるのではないかと思います。
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