浦島太郎の話は皆さんもよくご承知だろうと思います。
童謡の歌詞にはこうあります。
むかしむかし浦島は/助けた亀に連れられて
竜宮城に来てみれば/絵にもかけない美しさ
乙姫さまのごちそうに/鯛やひらめの舞踊り
ただ珍しく面白く/月日のたつのも夢のうち
遊びにあきて気がついて/おいとまごいもそこそこに
帰る途中の楽しみは/みやげにもらった玉手箱
そうやって帰ってきたのはいいのですが、
故郷はまるで様子を一変し、
知っている人も一人もいない。
途方にくれた太郎は、
「困った時以外は絶対に開けてはならない」
といわれていた玉手箱を思い出し、
いま困っている時だと、その玉手箱をあける……
あとは皆さんもご承知の通り、
太郎はあっという間におじいさんになってしまいます。
童謡はこう歌っています。
心細さにふたとれば/あけて悔しき玉手箱
中からぱっとしろけむり/たちまち太郎はお爺さん
幼少期に聞いて以来、
この話はずっと私の心の中に残っていました。
この逸話は一体私たちに何を教えようとしているのだろうか
という疑問です。
・太郎は亀を助けた
・そのお礼に乙姫様に接待された
・太郎は接待を受け、竜宮城で心から楽しみ、礼をいい帰ってきた
・すると故郷は一変し、知人は一人もいなかった
・困った太郎は乙姫様がみやげにくれた玉手箱をあけた
・途端に太郎は老人になってしまった
よいことをしたはずの太郎がなぜ、
あっという間に老人にならなければならないのか。
なぜ、乙姫様はそんな玉手箱をみやげにくれたのか。
その疑問が長い間、私の心に残っていました。
もちろん、ずっとそんなことを考えていたわけではありませんが、
時折その疑問が頭をもたげていました。
その疑問が一昨年、氷解しました。
ああ、そういうことだったのか、と。
もちろん逸話に正解はないのでしょうが、
何事も疑問が解けるのはうれしいものです。
小さな気づきですね。
想像するに、浦島太郎が竜宮城に行ったのは
20代か30代の元気旺盛の頃だったと思います。
それが帰ってきたら、故郷は一変、
知っている人も一人もいない。
それで太郎は困り果て、玉手箱を開けてしまい、
おじいさんになってしまったわけです。
もし仮に、太郎が昔を振り返ったり、
なつかしがったりしないでいたら……
つまり、知る人がなく、思い出の風景がなくとも、
そういうことに頓着せず、自分は若いし、体も健康なのだから、
この環境の中でまた新しい人生を精一杯に生きてみよう――
そういうふうに決心したら、太郎は困ることもなく、
従って玉手箱をあけずに、若い体のまま、
新しい人生の一歩を踏み出していくこともできたのです。
つまり、浦島太郎の話が私たちに教えているのは、
人は須らく
「いま」「ここ」に生きよ、
ということではないかと思うのです。
過去を思うな
未来を願うな
今なすべきことをなせ
と釈迦はいっています。
過去はよかったとか、あの時こうすればよかったとか、
過ぎ去ったことにいつまでもとらわれていてはいけない。
また、まだ来ない未来のことに思いをはせ、
未来に振り回されてはいけない。
それよりもいまなすべきことを確実になせ、
ということです。
この釈迦の教えを凝縮したのが禅ですが、
禅の教えの極意は
「いまここに全力投球して生きる」
ということに尽きるのではないかと思います。
浦島太郎の物語が幾時代を経て残ってきたのは、
そういうメッセージを私たちの祖先も無意識のうちに
感受し、それに共感していたからではないかと思うのです。
以上私見ですが、私が経営計画発表大会で話した
浦島太郎の話です。
各人達人といわれる人は何歳になっても、
「いま」「ここ」に完全燃焼しています。
平澤興先生(京大元総長)の言葉があります。
「今が楽しい。
今がありがたい。
今が喜びである。
それが習慣となり、天性となるような生き方こそ最高です。」
平澤先生自身が89歳までそういう人生を歩まれた方です。
私たちもそういう人生をめざしたいものです。
※出典:致知出版社社長の「小さな人生論」より