やっとこの頃、春らしい天気になってきました。
プロ野球のオープン戦もすでに始まり、
開幕ももうすぐです。
日本のプロ野球界のスーパースターといえば、
長島茂雄!(読売巨人軍名誉終身監督)
現役を退いても、その人気は衰えることがありません。
テレビで見る長島さんはいつも笑顔で
ユーモアに溢れ、楽しい雰囲気に包まれていて
「苦労」というイメージをあまり感じさせないかたです。
でも、実は長島さんは想像を絶するような
苦労と努力をして、日本球界のスーパースターまで
登りつめられたかたなのです。
そんなエピソードを今日はご紹介しましょう。
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1954年、高校を卒業した長嶋さんは、
当時、「鬼」と言われた砂押邦信監督率いる
立教大学の野球部に入ります。
実は、立教大学は本人が望んだわけでありませんでした。
高校生のとき、長嶋さんには、
いくつかのプロ野球球団からの誘いがありました。
その中には憧れの巨人軍もありました。
しかし、立教大学のマネージャーが長嶋さんの留守中に来て
「うちの砂押(当時の監督)がお宅の息子さんをあずかって
六大学一のプレーヤーに育成したいと申しております」
とお父さんを口説きました。
契約金のことしか話さないプロ球団にうんざりしていた
まじめ一筋のお父さんはいたく感動し、
「お世話になります」と即答。
本人の気持ちもきかず、
勝手に立教大学に決めたのです。
(そのため、あとで父子の関係はこじれるのですが、
結果的に、父親の決断は間違っていなかったと
長嶋さんは後に感謝する)
そのお父さんは、
しばらくして病気で亡くなります。
お父さんは、臨終の間際、息子の手をとり、
はっきりとこう言いました。
「野球をやるからには、
六大学の一番の選手にならんといかんぞ。
プロに行っても日本一の選手になれ」
そして、そのまま目を閉じたのです。
長嶋さんは、この父の遺言によって、
野球一筋の人生を歩む決意を固めます。
「日本一」
それが長嶋さんの夢になるのです。
立教大学野球部の砂押監督のスパルタ教育。
これがまたすさまじかったのです。
シートノックを取り損なうと、
連帯責任で練習はやり直し。
まるで軍隊です。
当時、長嶋さんは守備が
自分でもわかるくらい下手だったので、
練習はなかなか終わりません。
失策し殴り倒され、
ときには長嶋さんのコーチがやられることもありました。
夕暮れまで練習し、飯を詰め込むヒマもなく、
夜間練習の特訓が待っていました。
暗くて互いの顔すら見えない、
伝説の月夜のノックです。
月のない夜には、
ボールに白い石灰をなすりつけただけ。
長嶋さんは、当然ながら、何度もエラーをします。
このときの砂押監督の言葉がすごいのです。
「いいか、長嶋、
ボールをグラブで捕ると思うな。
心で捕れ、心でっ!」
さらには、
「おまえはまだグラブに頼っているのか!
そんなもの、捨ててしまえ!」
と素手で捕る練習になりました。
骨折の危険はありましたが、
真剣に玉に向かうことで、
球際を見極め、変化に対応できる
あの見事なフィールディングが磨かれていったのです。
その後、ご存じのように、
長嶋さんは東京六大学だけでなく、
日本野球界のスーパースターへと成長していくのです。
長嶋さんは、プロとして常にお客さんを喜ばせることを考えて
プレーしていた人です。
そのために努力するのは当然だと考え、
それを人に見せたがらない人でもありました。
が、実は人一倍、真剣に努力してきた人だったのですね。
※出典:「日本経済新聞」私の履歴書 2007年7月掲載