1994年にアフリカの小国ルワンダで起こった
多数派フツ族による少数派ツチ族の大量虐殺のことを
みなさんは憶えているだろうか?
実は私自身、「ルワンダの大虐殺」という言葉は
なんとなく耳にしたことがあるので知っている
という程度で、詳しいことはほとんど知らなかった。
イマキュレー・イリバギザ さんが書いた
「生かされて」という本がある。
イマキュレーさんは24歳の時に
この惨憺たる事件の真っ只中にいて
奇跡的に生き延びることができた。
その壮絶な記録を書いた本だ。
元ベルギーの植民地であったルワンダでは、
1994年、多数派のフツ族と少数派のツチ族の争いが起こっていた。
中央アフリカにある小さな国、
美しい自然に囲まれて育ったイマキュレー。
最愛の両親や兄弟たちとの穏やかな生活。
信仰に生き、地域でも信頼と尊敬を集める父や母、
2人の兄と1人の弟の間で、
イマキュレーは健やかに成長し、
将来は尼僧になりたいと思っていた
天国のような生活がある時、崩れ始める。
「フツ族大統領がツチ族に殺された」というラジオの放送が
きっかけになってフツ族によるツチ族の虐殺が始まった。
父は娘を守るために、ある牧師のところに行きなさいという。
母や兄弟は、ザイールに留学していた
1人の兄を除いて父とともにあった。
ムリンジ牧師は彼の妻がツチ族であったために、心情的であった。
イマキュレーを含む女性6人を、
クローゼットのようなトイレにかくまい守ってくれた。
音を立てることもできない狭い空間の中で、
ギュウギュウに押し込められていた。
外では、「森を探せ、湖を探せ、丘を探せ!教会もだ。
やつらを地球上から一掃しろ!」の狂乱の叫び。
恐怖と不安の連続・・・。そして、疑いや怒りの心。
気持ちを落ち着けるために祈る・・・。
祈りへの集中。
不安が和らぐよう目をさましている間は、ずっと祈り続ける。
「ほんの少しでも、祈ることをやめれば、
悪魔の疑いと自分自身への哀れみという
2枚の刃を持ったナイフが私を襲います。
祈りは私のよろいになりました。」
このような恐怖の日々にあっても
「何か心をいっぱいにするものが欲しいんです。」と
英語を習い始める。
現実世界に戻ったとき、役立つようにと、
「サバイバル」のための英語を身につけていく。
三ヶ月もの間、狭いトイレに6人の女性が息を潜めて隠れ続けた。
命がけでかくまってくれる神父の僅かな差し入れのみを頼りに。
フランスの援軍がツチ族を守ってくれるということで、
ムリンジ牧師の所を出て、キャンプに行くのであるが、
何度も「解放」にはつながらない状況に出会う。
キャンプで出会った人たちから聞かされる虐殺の惨状。
ありとあらゆる人々が両親や兄弟、子どもなど、
家族を失っていた。
死体の山を歩き回るが、涙なんてでない。
この3ヶ月で100万人のツチ族が殺されたとも言われた。
親兄弟を殺され、幸運に幸運が重なって
かろうじて彼女は生き延びることができた。
はらわたが煮えくりかえる怒りと憎しみに悶々として、
「あいつらはけだもの!フツを殺す銃や大砲が欲しい」。
彼らが地獄に堕ちて、火に焼かれて欲しい。
彼らを殺す武器を・・・と復讐に燃え、
怒りで荒れ狂っていた筈の彼女
ところが彼女は、信じられないような行動を取る。
今は解放軍に逮捕された虐殺集団の頭目、
かのかつての良き隣人を訪ね、
やつれて視線を合わすこともできないその姿を
じっと見つめた末に放った言葉。
「あなたを許します。」
愛する家族を残酷な手口で殺した相手を
人は許すことなどできるのだろうか…
でも彼女は許したのです。
彼女が憎しみという感情に心を占領されなかったのは何故か?
それは、彼女の子ども時代にあるようだ。
彼女の両親は、子どもたちには部族、
人種差別について一切教えなかった。
カトリック信者としての躾には厳しいものがあったようだが、
差別の存在は教えず、周りの人々とは人種、宗教関係無く助け合い、
生活の苦楽を共にしていた。
そんな両親の背中を見ながら育った子どもたちは、
はつらつとした自我が形成され、
愛情豊かな心の持ち主となっていたにちがいない。
仇討ちをすれば、憎しみが消えて
心がすっきりするのだろうか。
たとえ、いっときは清涼感が得られるとしても、
それはほんの一瞬。
悲しみは癒えない。
むしろ、さらに新たなる怨念の焔が燃え上がる。
憎っくきやつらを殺しても、やつらが切り刻んだ
愛するあの人は生き返っては来ないのだ。
でも、どこかにあいつがいて、生き続けているのは許せない。
殺しても飽き足らないが生かしてはおけない。
法の裁きが何であろうと、
そいつをぶち殺さないことには気が済まない。
こいつを殺せば、あのひとが天国で
喜んでくれているにちがいないから、
私はこいつを殺さなければがならない。
それは私の義務であり喜びであると思ってしまう。
しかし、そうすれば私は幸せになれるのか。
本当に天国でみんな喜んでくれるのか。
彼女もこんなふうに悶々とした。
が、裸にされ頭骸骨を割られ
手も切り落とされて殺された最愛の兄が、夢の中で
「僕たちが君をまだ 幸せに出来るのを見るのは嬉しいよ。
君は随分ながいあいだ苦しんだね。
でももう、涙と別れる時だ。
僕たちがどんなにすばらしいところにいるか見てごらんよ。
ごらん、どんなに幸せでいるかわかるだろう。」
というのを聞く。
そして、兄の言葉はさらに続く。
僕たちがいまだに苦しんでいると思ってはいけない。
心を癒しなさい。
「君は、僕たちの人生を変えてしまった人々を愛し、
許さなければならない」。
家族は復讐を期待してはいないのだと。
彼女は、この憎しみと復讐に駆られる気持ちを
「悪魔に占領されている」という。
悪魔が耳元でささやく言葉に気を取られているからだとする。
そして、彼女の愛する人たちの命を奪った張本人も、
彼らの魂は悪魔ではなく、恐ろしいことをやっていても
彼らは神の子どもたちだと。
許すということは、
あなたを傷つけた人、あなたのことを裏切った人、
あなたのことを粗末に扱った人・・・
そのようなつまらない人間の影響を受けずに生きる
ということを自分自身に許可することなのです。
許せないと思っている、つまらない人間の影響を受けずに生きる
そう決断できると、人は心の牢獄から解放されます。
新しい世界が、目の前に広がっていることでしょう。
そして、あなたが許せないと思っていた人が、哀れに思えます。
哀れみは、上位者から下位者に対する感情です。
相手を哀れだと感じた時、あなたは、
その相手を乗り越えているのです。
逆に言えば、許すことができないと、
そのようなつまらない人間の影響下にい続けること、
支配され続けることになります。
あなたは、どちらを選びますか?
日常生活の中でも人に腹を立てることは
しょっちゅうあります。
でも、腹を立てて、
怒りでイライラした時間を費やすということは
実にもったいないことだ。
いまのこの時間はもう二度と取り戻すことはできない。
腹を立てていちばん損をするのは
他ならない自分自身なのだ。
そんなばかばかしいことはない。
人を許すということは
自分自身の人生を豊にすることができる
ということなのだ。
誰のためでもない、
自分のために人を許すということに
真剣に取り組むことも大切だ。