ある薄幸な少女
世間では、良く才能のあるなしを問題にするが、
人は誰でも他人にない
素晴らしい才能を持っているのだと私は信じている。
才能の全くない人など、この世には存在しない。
才能がないと絶望している人がもしいたとしたら、
それは、周囲もその人自身も、
自らの内に秘められた才能の存在に気がついていないのである。
才能について考えるとき、
私には忘れることのできない一人の少女がいる。
それはまだ私が十代の頃に出会った少女である。
私は東京の下町で生まれ育ったが、
旧制高等学校は津軽にある弘前に行った。
時代はちょうど戦争の最中であった。
私はいずれ兵隊にとられ、
天皇の名のもとに、敵のタマに当たって
ひっそりと死んでしまうことになるだろうと思っていた。
どうせ死んでしまうのだから、せめて生きている間ぐらいは、
この世に生きていたあかしを立てておきたいと願った。
そして私は小さい頃から読書が好きだったので、
どこか静かなところで一行でも多く本を読みたいと思って、
はるばる北国へと旅立っていったのである。
そこで、戦争は終わり、私は兵隊にとられることもなかった。
そのとき私は十八歳だった。
戦争が終わってまもなくのことである。
一人のアメリカ人牧師が私を訪ねてきて、
こんなことを言い出した。
「いま日本には戦争で親を亡くした子供たちが
たくさん放浪しています。私たちだけではとても手が回りません。
あなたにも手伝っていただきたいのです。
子どもたちの面倒を見てもらえますか」
私はこの申し出を快く引き受けた。
そのとき私の頭にあったのは、
"どこかへ奉仕活動に行けばいいのだろう"
ということだった。
「よろしいですよ。私のできることなら喜んで協力いたしましょう」
翌朝になると、また牧師さんがやって来た。
だが、その姿を見て私は腰を抜かさんばかりに驚いた。
牧師さんは一人で来たのではなかった。
下は三歳から上は十三歳までの浮浪児を
なんと六十八人も連れてきたのである。
十八歳の私は、こうして六十八人の子どもの父親代わりとなった。
私に与えられたのは、終戦まで軍隊が使っていた兵舎が一棟。
兵舎といっても、お粗末を極めたもので、窓ガラスなど割れ放題だ。
私はあちこちから新聞紙をかき集めてきて貼りつけた。
ふとんもない。
そこでアメリカ軍の司令部に電話をしてベッドが欲しいと頼んでみた。
すると、二時間後、七十人分のベッドが運び込まれた。
私は、占領政策なのか、それともアメリカ人というのは、
皆こんなにやさしい人たちなのかよくわからなかった。
私はそのとき十八歳になったばかりであった。
確実にわかったのは、昔の日本軍ならば、
けっしてこんなことはしてくれなかっただろうということだけであった。
こうして寝る場所と寝具は何とか確保できたが、
それから後の生活が大変だった。
何しろ食糧難の時代である。
両親がちゃんとそろった家庭でも、
「明日は子どもに何を食べさせようか」と頭を悩ませた時代に、
親を亡くした六十八人の子どもに三度の食事を与えることは
並たいていの苦労ではない。
戦争を体験した世代の方なら、どんなにひどい生活であるか
おおよそ想像していただけるだろう。
私は毎朝三時に起きて子どもたちの朝食をつくった。
六十八人分の朝食。
しかし実際はそれだけでは足りない。
約半数近い三十人が学校へ通うので、
その子たちの昼の弁当も用意しなければならないのだ。
給食はまだ始まっていなかった。つまり、
朝はまずざっと百人分の食事づくりから始まるのである。
そうこうしているうちに、冬が来てしまった。
津軽は雪が多い。
粗末な兵舎での夜は想像を絶する寒さであった。
暖房器具はないし、寝具も不十分だから、
小さい子どもたちはいつまでたっても寒さのために寝つかれない。
仕方がないので、私はベッドからおりて、
板張りの床の上に寝具をしき、大の字になって寝た。
そうして小さな子たちを私のまわりに集めるのである。
肌を寄せ合っていると少しは暖がとれるのである。
幼い子どもたちは、私の両腕、両足、腹などを枕にして寝た。
まるで豚の親子である。
いまの私が豚のごとく肥ってしまったのは、
このときの後遺症ではないかと思っている。
さて、私が必死になって面倒をみなければならなかった
六十八人の子どもたちの中に、一人の少女がいた。
その子は精薄児だった。
名前も年齢も、両親の名も、
どこから来たのかもわからない。
おそらく十二、三歳だったと思うが、やせていて背も低く、
おまけに耳が聞こえず、ほとんどしゃべれなかった。
これだけ悪い条件がそろえば、
正直いって集団生活では持てあまし者である。
だが、この少女が六十八人の中で誰にも負けない
素晴らしい能力を発揮してくれたのである。
それは洗濯だった。
朝から晩まで彼女は黙々と洗濯をした。
何しろ六十八人分である。
私は朝三時に起きて食事づくりをし、
半分の子どもが学校へ行っている間に買い出しに行く。
帰ってくると小さい子供たちに昼食を食べさせ、
すぐに夕食の準備に入らなければならない。
その他いろんな雑用がある。
もし、これに洗濯までやらされたら
おそらく私は三日ともたなかったと思う。
しかし、その精薄の少女は、
冬になっても洗濯を続けてくれた。
洗濯機などあるはずもない。
すべて手洗いである。
厚い氷の張った津軽の水の冷たさは
いまさら説明するまでもないだろう。
彼女の手はしもやけとアカギレで
饅頭のようにふくれ上がり、
しかも血だらけだった。
私はこの少女に何かお礼をしたいと思った。
しかし、アメ一つ、せんべい一枚ない生活なのだ。
でも私が「ありがとう」というと、
おそらく態度でわかるのであろう、
顔を見上げてかすかに微笑してくれた。
ほかの小さな子どもたちが、
「おねえちゃん、ありがとう」というと、
あ、笑ってくれたのかなと思うくらい
かすかに表情を崩してくれた。
それがその子にしてやれるただ一つのお礼であった。
また、私は少しでもヒマがあると、
彼女の手を引いて自分の腋の下に入れて暖めてやった。
十分でも二十分でも、時間があればじっとそうしていた。
夜は毎晩のように、その子の手を腋の下にはさんで寝た。
私は今でも覚えているが、
あまりの冷たさに自分の心臓が凍りつくようであった。
しかし、それが私にできる精いっぱいのお礼だったのである。
その後まもなく私はその孤児院を去った。
何人かの後継者が現れてくれたからである。
しかし、私がいなくなってちょうど一週間後に、
その子は施設の門の前でクルマにはねられて、即死した。
耳が不自由だったあの子は、
クラクションの音に気づかなかったのであろう。
だが、私はこの幸薄い一人の少女との交友を通じて、
つくづく感じたことがある。
それは神様はどんな人間にも、たった一つだけは、
他人にない素晴らしい才能を与えてくださっているということである。
その才能は勉強で伸びる人もいるし、
器用さで伸びる人、勇気で伸びる人、
やさしさで伸びる人、才能というものは、
さまざまな伸び方をするのである。
それが二十代で伸びる人もあれば、
七十代で伸びる人もある。
あの子は洗濯をすることで
自分の持っているたった一つの才能を発揮した。
あの子は親の名前も顔も知らない
わずか十余年の短い生涯を終えた。
あの子はたった一つの才能を自分のためにも生かし、
六十七人の子どもたちにも与えて死んでいった。
私は、いまでもあの子は、きょうも天国のどこかで
きっと皆の洗濯をしてやっているにちがいないと信じている。
※出典:元NHKアナウンサー鈴木健二著『気くばりのすすめ』より