「無限の力」
尾崎まり子(主婦、喫茶店勤務)
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突然、それは本当に突然でした。
四年前になります。
お正月を過ぎてほどない日の午後、
息子の功が意識を失って倒れたのです。
不整脈から心肺停止状態に陥ったのでした。
小学生から野球に熱中し、中学生になると
浦安リトルシニアに入り、やがては甲子園出場、
巨人入団を夢見ていました。
そんな作文を小学六年の時に書いています。
中学三年で身長百七十六センチ、体重六十三キロ、
鍛えた筋肉質の身体は頑健で、
学校は無遅刻無欠席、病気らしい病気を知らずにきた子でした。
それだけに突然の異変は驚きでした。
それから四か月、何度も訪れた危篤状態を
驚くような生命力で乗り越え、
平成十二年五月二十日、功は天国に旅立ちました。
十五歳八か月の人生でした。
振り返ると、一日二十四時間では
とても足りないような毎日を過ごした子でした。
中学生になると、土日は野球の練習や試合でいっぱい。
学校では生徒会役員を一年生からやり、
三年では学級委員長も務めました。
それだけでも手いっぱいなのに、
部活動ではバスケット部に入りました。
苦手の英語も、英会話で進める授業の面白さに引かれ、
その勉強もしなければなりません。
野球の仲間、クラスメートとの遊びもあります。
あれもやりたい。
これもやりたい。
でも、功はこだわりの強い性格なのでしょうか。
中途半端が大嫌いで、どれ一つとして疎かにはできません。
徹底してやるから、時間がいくらあっても足りないはずです。
「ああ、時間が欲しいよォ」
いまでも功の声が聞こえるような気がします。
あんなふうに生きたのも、自分に与えられた
時間の短さを予感していたからなのかもしれません。
といって、功は特に才能に恵まれた子ではありませんでした。
いささか恵まれているといえば背の高さぐらい。
まず運動神経も人並み、頭脳のほうも
人並みというのが率直なところです。
だから、何かを達成しようと思えば、
努力しなければなりません。
野球でレギュラーになるのも努力、
生徒会役員の務めを果たすのも努力という具合です。
そして、目標を立て努力すれば夢は叶うという確信を、
小さい営みの中で功なりにつかんだのでしょう。
いつごろからか、功はそのことを
「無限の力」という言葉で表現するようになりました。
「誰にでも無限の力があるんだよ。
無限の力を信じれば目標は必ず叶うんだ」
お母さん、これだけはちゃんと聞いてくれよという感じで、
夕餉(ゆうげ)の食卓で功が言ったことを、
昨日のように思い出します。
「無限の力」で忘れられないのは、
やはり中学三年の時の校内合唱祭でしょうか。
音楽が得意というわけでもなく、楽譜も読めない功が、
自分から立候補して指揮をすることになったと
聞いた時は驚きました。
それからは楽譜と首っ引きで指揮の練習です。
腕を振りすぎて痛くなったり、
クラスのまとまりの悪さに悩んだり、
いろいろとあったようですが、
功は「無限の力」を学級目標にかかげ、
みんなを引っ張っていったのでした。
そして、クラスは最優秀賞、自身は
指揮者賞を受けたのです。名を呼ばれ、
周りにピースサインを送り、
はにかんだ笑顔で立ち上がった功。
「無限の力」は本当だと思ったことでした。
その二か月後に功は倒れ、帰らぬ人になりました。
しかし、私が「無限の力」を実感するようになったのは、
それからかもしれません。
一緒に野球をしてきた親友は功の写真に、
「おれがおまえを甲子園に連れてってやる」と誓い、
甲子園出場を果たしました。
「功が言っていた無限の力を信じて、看護師を目指すよ」
と報告してくれた女の子もいました。
出会い、触れ合った人たちに何かを残していった功。
それこそが「無限の力」なのでしょう。
私も、と思わずにはいられません。
自分の中にある「無限の力」を信じて、
自分の場所で、自分にできることを精いっぱい果たしていく。
そういう生き方ができた時、
功は私の中で生き続けることになるのだと思います。
先日、用事があって久しぶりに
功が通っていた中学校を訪れました。
玄関を入って私は立ちすくみ、動けなくなりました。
正面の壁に功の作文が張り出されていたのです。
それは功が倒れる数日前に書いたものでした。
あれから月日が経ち、先生方も異動され、
功をご存知の方は三人ほどのはずです。
それでも功の作文が張られているのは、
何かを伝えるものがあると思われたからでしょう。
これを読んで一人でも二人でも何かを感じてくれたら、
功はここでも生きているのだと思ったことでした。
最後に、拙いものですが、功の「友情」と
題された作文を写させていただきます。
《私にとって「友情」とは、
信頼でき助け合っていくのが友情だと思う。
そして、心が通い合うことが最も大切なことだと思う。
時には意見が食い違い、言い合う事も友情のひとつだと思う。
なぜなら、その人のことを本気で思っているからだ。
相手のことを思いやれば、相手も自分のことを
必要と感じてくれるはずだ。
私には友が一番だ。
だから、友人を大切にする。
人は一人では生きられない。
陰で支えてくれている人を忘れてはいけない。
お互いに必要だと感じることが、友情だと思う。
尾崎 功》
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※出典:『致知』2004年7月号「致知随想」より
※肩書きは『致知』掲載当時のものです
『招き猫のはじまり』
昔々、江戸の町にとても貧しい禅寺がありました。ひっそりと二~三
人の雲水だけが修行し、檀家のお布施によって辛うじてお寺の運営を
維持していました。
この寺の和尚さんは大の猫好きで、ただでさえ粗末な自分の食事を割
いて猫に与え可愛がっていました。
ある日、あまりに貧しいので和尚さんは猫に向かってグチを言いま
した。
「おい猫よ、もしお前が私に恩を感じるならば、何か果報をもたらし
てみよ」
でも猫は何も答えませんでした。
それから何か月か経ちました。
夏の日の午後でした。
門の周辺が騒がしいので何だろうと思って行ってみると、鷹狩りの帰
りとおぼしき数人の武士がそこにいました。
ひときわ風格のある立派な武士が和尚にむかって言いました。
「我ら、今、寺の前を通りすぎようとしたら、門前に一匹の猫がうず
くまり我らを見上げてしきりに手招きしておる。その様子があまりに
不審なのでここまで尋ね入った次第。しばらく休憩させよ」
和尚は一行を歓迎して、休憩所で渋茶などを振る舞いました。
すると、先ほどまでの晴天がうそのように曇りだし、たちまち激しい
夕立が降りはじめました。ついには雷鳴までもが加わってすぐにはや
みそうもありません。
手持ちぶさたは失礼と、和尚は三世因果(過去・現在・未来の因果関
係の法話)の説法をしました。それを聞いて武士は大いに感銘し、仏
教に帰依したいと申し出ました。それどころか、この寺の檀家になり
たいとも言ってくれました。
和尚はびっくりしました。念のため、武士の名前を伺うと、武士は
「我こそは、江州彦根の城主、井伊直孝なり」と名乗りました。
初代・井伊直政に次ぐ二代目彦根城主で、彼のずっとあとに安政の大
獄を取り仕切った大老・井伊直弼が生まれています。
井伊直孝は言いました。
「猫に招き入れられたおかげでこうして雨をしのぎ、貴僧の法談を聞
くことができた。これもひとえに仏の因果だろう。これを機に、いろ
いろ世話になりたい」
この時から井伊家の江戸における菩提寺はこの寺に決まりました。こ
の日以来、この寺は吉運が開き、やがて井伊家から莫大な寄進が寄せ
られ、一大伽藍を形成する立派なお寺になりました。
寺の名を「豪徳寺」といい、今の東京都世田谷区にあります。
猫はやがて死にました。しかし猫が吉運を招きいれたとしてこの寺
を人々は猫寺と呼ぶようになりました。また、和尚も猫のために墓を
建ててやりました。
さらに後生のためにこの猫の姿を再現した「招福猫」(招き猫)を作
り、家内安全・商売繁盛・心願成就を祈念するシンボルとしました。
※「招き猫」の由来については諸説あって、どれが定かなものなのか
分かりません。
※井伊家の菩提寺は彦根の「龍潭寺」と、東京の「豪徳寺」と言われ
ています。
★豪徳寺
http://www.kmine.sakura.ne.jp/tokyo/jinjyabukaku/goutokuji/goutokuji.htm
「言葉は丁寧に使おう」
腰塚勇人(「命の授業」講演家)
『致知』2013年3月号
特集「生き方」より
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※越塚勇人(こしづかはやと)プロフィール
1965年、神奈川県生まれ。
元・中学校体育教師。元・養護学校教師。
大学卒業後、「天職」と思えた中学校の体育教師になる。
学級担任、バスケット部顧問として「熱血指導」の日々を送る。
2002年3月1日、人生を大きく変える事故が起こる。
スキーでの転倒で「首の骨」を折り、奇跡的に命は取り止めたものの、
首から下がまったく動かなくなる。
当時、医師からは
「一生、寝たきりか、よくて車イス」の宣告を受け、
あまりの絶望に「自殺未遂」をする。
その後、妻、両親、主治医、看護師、生徒たち、
職場の同僚などの応援と励ましを受け、
「自分の命があらゆるものに助けられ、生かされていること」に気づき、
「笑顔」と「感謝」と「周りの人々の幸せを願う」ことにより、
奇跡的な回復力を発揮する。
そして、「下半身と右半身の麻痺」など、身体に障がいを残しながらも、
4ヵ月で現場に復帰し、中学3年生の担任を務める。
主治医からは「首の骨を折って、ここまで回復した人は、
治療した中では、腰塚さんだけだ」と言われるほどの「奇跡の復活」を遂げる。
その体験を「命の授業」として6分ほどの「ムービー(動画)」にして公開したところ、
30万人を超える人々の目にふれることとなる。
2010年3月に、「命の授業」の活動に専念するため、22年間務めた教員を辞職。
同年5月に『命の授業』(ダイヤモンド社)を出版。
2010年2月に『感謝の授業』(PHP研究所)を出版。
現在「命の授業」の講演家として、自らの経験を元に、
「命の尊さ」「生きていることの素晴らしさ」「ドリームメーカーの大切さ」
「命の喜ぶ生き方」を、全国の小学校、中学校、高校、
そして一般の方々に伝える活動をしている。
全国から数多くの「講演」依頼があり、講演会の参加者は、
開始からわずか2年で10万人以上にのぼる。
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実は怪我をするまで、僕は競争が大好きな人間でした。
「常勝」が信条で、人に負けない生き方を
ずっと貫いていたんです。
だから「助けて」なんて言葉は口が裂けても言えない性分でした。
それが怪我ですべて人の手を借りなければ
ならなくなりました。
僕が一番したくない生き方でした。
苦しいし、泣きわめきたいし、「助けてっ!」って
言葉が口元まで出かかってくるけど、
プライドが邪魔してそれを言わせない。
ここで弱音を吐いたら、家族に余計に
心配をかけてしまうと思うと、
なおさら言えませんでした。
皆に迷惑をかけた分、なんとかしたいって
気持ちでいたんですが、そのプレッシャーや苦しさに
押し潰されそうになってしまって……
僕はとうとう舌を噛んだんです。
自分の未来に絶望感でいっぱいでした。
本当は死にたくなんてなかったんです。
でも首から下の動かない人生、
生き方が分からず苦しかったんです。
だけど結局、死に切れなかった。
あとには生きるという選択肢しかなくなりました。
じゃあ明日から前向きに生きられるかといったら、
それは無理です。
自分を押し包む苦しさが
なくなったわけではありませんからね。
次にしたことは将来を手放すことでした。
自分の将来に期待するから苦しむ。
だったらその将来を手放してしまえばいい。
周りに何を言われても無反応になりました。
そんなある晩、苦しくて寝つけないでいると、
看護師さんが声をかけてくれました。
「腰塚さん、寝ないと体がもちませんよ。
睡眠剤が必要だったら言ってね」
って。その言葉に僕の心が反応しちゃったんです。
おまえに俺の気持ちが分かってたまるかって、
無意識に彼女をグッと睨みつけていました。
その看護師さんは素敵な方でね、
僕の様子にハッと気づいてすぐに言ってくれたんです。
「腰塚さんごめんね。
私、腰塚さんの気持ちを何も考えずに、
ただ自分の思ったことを言ってたよね。
でも腰塚さんには本当に少しでも
よくなってもらいたいと思っているから……、
なんでもいいから言ってほしいです。
お願いだから何かさせてください」
看護師さん、泣きながらそう言ってくれたんです。
彼女が去った後、涙がブワッと溢れてきました。
あぁ、この人俺の気持ちを分かろうとしてくれてる。
この人にだったら俺、「助けて」って
言えるかもしれないって思えたんです。
それまで僕は周りからずっと
「頑張れ」って励まされていました。
僕のことを思って言ってくれているのが
分かるから決して言えなかったけど、
心の中は張り裂けそうでした。
俺、もう十分頑張っているんだよ……、
これ以上頑張れないんだよって……。
だから救われたんです。
あの時以来、凄く思うんです。
人の放つ一言が、人生をどうにでも
変えてしまうんだなって。
だから自分は言葉を丁寧に使おう。
言葉をちゃんと選んで、丁寧に使おうって。
「あずさからのメッセージ」
是松いづみ(福岡市立百道浜小学校特別支援学級教諭)
『致知』2013年2月号
致知随想より
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十数年前、障がいのある子がいじめに遭い、
多数の子から殴ったり蹴られたりして亡くなるという
痛ましい事件が起きました。
それを知った時、私は障がい児を持った親として、
また一人の教員として伝えていかなくては
ならないことがあると強く感じました。
そして平成十四年に、担任する小学五年生の学級で
初めて行ったのが「あずさからのメッセージ」という授業です。
梓は私の第三子でダウン症児として生まれました。
梓が大きくなっていくまでの過程を
子供たちへの質問も交えながら話していったところ、
ぜひ自分たちにも見せてほしいと
保護者から授業参観の要望がありました。
以降、他の学級や学校などにもどんどん広まっていき、
現在までに福岡市内六十校以上で
出前授業や講演会をする機会をいただきました。
梓が生まれたのは平成八年のことです。
私たち夫婦はもともと障がい児施設で
ボランティアをしていたことから、
我が子がダウン症であるという現実も
割に早く受け止めることができました。
迷ったのは上の二人の子たちにどう知らせるかということです。
私は梓と息子、娘と四人でお風呂に入りながら
「梓はダウン症で、これから先もずっと自分の名前も
書けないかもしれない」
と伝えました。
息子は黙って梓の顔を見つめていましたが、
しばらくしてこんなことを言いました。
さあ、なんと言ったでしょう?
という私の質問に、子供たちは
「僕が代わりに書いてあげる」
「私が教えてあげるから大丈夫」
と口々に答えます。
この問いかけによって、一人ひとりの持つ優しさが
グッと引き出されるように感じます。
実際に息子が言ったのは次の言葉でした。
「こんなに可愛いっちゃもん。
いてくれるだけでいいやん。
なんもできんでいい」。
この言葉を紹介した瞬間、
子供たちの障がいに対する認識が
少し変化するように思います。
自分が何かをしてあげなくちゃ、と考えていたのが、
いやここにいてくれるだけでいいのだと
価値観が揺さぶられるのでしょう。
さて次は上の娘の話です。
彼女が
「将来はたくさんの子供が欲しい。
もしかすると私も障がいのある子を産むかもしれないね」
と言ってきたことがありました。私は
「もしそうだとしたらどうする?」
と尋ねました。
ここで再び子供たちに質問です。
さて娘はなんと答えたでしょう?
「どうしよう……私に育てられるかなぁ。お母さん助けてね」。
子供たちの不安はどれも深刻です。
しかし当の娘が言ったのは思いも掛けない言葉でした。
「そうだとしたら面白いね。
だっていろいろな子がいたほうが楽しいから」。
子供たちは一瞬「えっ?」と息を呑むような表情を見せます。
そうか、障がい児って面白いんだ──。
いままでマイナスにばかり捉えていたものを
プラスの存在として見られるようになるのです。
逆に私自身が子供たちから教わることもたくさんあります。
授業の中で、梓が成長していくことに伴う
「親としての喜びと不安」には
どんなものがあるかを挙げてもらうくだりがあります。
黒板を上下半分に分けて横線を引き、上半分に喜びを、
下半分に不安に思われることを書き出していきます。
中学生になれば勉強が分からなくなって困るのではないか。
やんちゃな子たちからいじめられるのではないか……。
将来に対する不安が次々と挙げられる中、
こんなことを口にした子がいました。
「先生、真ん中の線はいらないんじゃない?」。
理由を尋ねると
「だって勉強が分からなくても周りの人に教えてもらい、
分かるようになればそれが喜びになる。
意地悪をされても、その人の優しい面に触れれば喜びに変わるから」。
これまで二つの感情を分けて考えていたことは
果たしてよかったのだろうかと
自分自身の教育観を大きく揺さぶられた出来事でした。
子供たちのほうでも授業を通して、
それぞれに何かを感じてくれているようです。
「もし将来僕に障がいのある子が生まれたら、
きょうの授業を思い出してしっかり育てていきます」
と言った子。
「町で障がいのある人に出会ったら
自分にできることはないか考えてみたい」
と言う子。
「私の妹は実は障がい児学級に通っています。
凄くわがままな妹で、喧嘩ばかりしていました。
でもきょう家に帰ったら一緒に遊ぼうと思います」
と打ち明けてくれた子。
その日の晩、ご家族の方から学校へ電話がありました。
「“お母さん、なんでこの子を産んだの?”と
私はいつも責められてばかりでした。でもきょう、
“梓ちゃんの授業を聞いて気持ちが変わったけん、
ちょっとは優しくできるかもしれんよ”と、
あの子が言ってくれたんです……」。
涙ながらに話してくださるお母さんの声を聞きながら
私も思わず胸がいっぱいになりました。
授業の最後に、私は決まって次の自作の詩を朗読します。
「あなたの息子は
あなたの娘は、
あなたの子どもになりたくて生まれてきました。
生意気な僕を
しっかり叱ってくれるから
無視した私を
諭してくれるから
泣いている僕を
じっと待っていてくれるから
怒っている私の話を
最後まで聞いてくれるから
失敗したって
平気、平気と笑ってくれるから
そして一緒に泣いてくれるから
一緒に笑ってくれるから
おかあさん
ぼくのおかあさんになる準備をしてくれていたんだね
私のおかあさんになることがきまっていたんだね
だから、ぼくは、私は、
あなたの子どもになりたくて生まれてきました。」
上の娘から夫との馴初めを尋ねられ、
お互いに学生時代、障がい児施設で
ボランティアをしていたからと答えたところ
「あぁ、お母さんはずっと梓のお母さんになる
準備をしていたんだね」
と言ってくれたことがきっかけで生まれた詩でした。
昨年より私は特別支援学級の担任となりましたが、
梓を育ててくる中で得た多くの学びが、
いままさにここで生かされているように思います。
「お母さん、準備をしていたんだね」
という娘の言葉が、より深く私の心に響いてきます。