先日、息子の通う中学校の10周年記念講演での
講師のお話の中で、
「文明の利器は人間力を低下させる」
というようなことを聞いた。
人間力を高めるには、ある程度の不便さを
経験させるべきだということでした。
なるほど、それは確かに言えることだと感じた。
私たちの暮らしはあまりにも便利になりすぎている。
ここまで便利になっているのに、
人間はここで満足せずに、
さらなる便利を求めている。
これからも際限なく便利さを求めていくのではないだろうか。
スマイルズの世界的名著「自助論」の中に、
次のような文章が書かれている。
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一般的にいって、
あまりに平板で順調な人生は人間をダメにする。
身辺に何一つ不自由なく
寝食にも困らないような暮らしより、
必要に迫られて一生懸命働き、
質素な生活を送る方がむしろ好ましい。
かなり苦しい境遇から人生が始まれば、
それだけ労働意欲はかき立てられる。
その意味で、貧困は人生における
成功の必修条件の一つともいえる。
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このように文明の利器に囲まれて、
便利で楽な生活をしていると
それが当たり前になり、
面倒な仕事をするのが嫌になってくる。
努力しようとする意欲が失われてしまう。
これは大きな問題なのではないかと最近思う。
人間、面倒な事をこつこつとやることを
忘れてしまったらほんとうに
ダメになってしまうのではないだろうか。
トヨタの最高級車レクサスのトップセールスマンの
上司のゼネラルマネージャーに聞いたお話し。
「どうすると、彼はそんなに売れるのですか?」
ゼネラルマネージャー曰く
「彼は、普通のことを普通にしているだけです。
電話の応対をきちんとする。
きちんと挨拶する。
そんな普通のことができない人が多いだけです」
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仕事のできる人、
仕事を楽しんでやっている人は
みんないい習慣を身につけています。
ほんとうにちょっとした習慣です。
例えば
●ちょっと早めに行動しよう。
●どんどん名前を覚えよう。
●口に出してほめてみよう。
●場にふさわしい言葉を使おう。
●分らないことは質問しよう。
●早起きをしよう。
●公私のけじめをきちんとつけよう。
●連絡メモは丁寧に。
これらの習慣はぜんぜん特別な事ではなく、
当たり前、普通のことばかりです。
普通のことをできる人が少ないのです。
普通のことがきちっとできれば
人生も大きく変わってくるでしょう。
いい習慣を身につけることは
とても大切な事ですね。
旅立ち
踏み出そう新しい歩みを
休息は充分なはずだ
時間はあまりにも冷酷
生命の砂時計は決して止められない
過ぎ去った時は戻らないのだ
踏み出そう新しい歩みを
振り返るにはまだ早い
立ち止まっていては何も生まれない
行き先に道などないが
きっと道は後からできるもの
踏み出そう新しい歩みを
私はまだ生きているのだから
いつか疲れ果て
荒野に崩れ落ちた私を
台地は迎えてくれるだろう
喝采の拍手で
あるがままに
あるがままに笑う
あるがままに泣く
あるがままに怒る
あるがままの毎日を
あるがままに過ごす
飾ることはない
肩の力を抜いて
あるがままの自分を
あるがままに受け止める
あるがままの姿が
きっと一番美しい
あるがままの心が
きっと一番美しい
-----「詩集・雫」四方健二より-----
以下は、ギブ&ギブメルマガ
プチ紳士を探せ!運動事務局
(執筆者/小島章裕・志賀内泰弘)
info@giveandgive.com
より転載させていただきます。
かなり長いのですが、
ぜひ最後まで読んでください。
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彼の詩は、あちこちを漂泊し、
気ままに吟行するような印象を受けるのですが、
実は彼は30年以上、
家からほとんど外に出たことがありません。
彼は7歳で進行性筋ジストロフィー症を発症して以来、
病床での生活を送っているのです。
手足の指先1本動かせません。
まったく寝たきりの状態です。
9月30日、四方君の詩の朗読会と講演会があると聞き、
金沢の市民芸術村パフォーミングスクエアへ
行ってまいりました。
朗読は地元の女性アナウンサーさんが、
心をこめて読んでいただきました。
講演は、ステージの上の移動式ベッドから、
本人が語りました。
・・・でも、
彼は言葉を発することができません。
どうやって皆に伝えたのか。
本当に驚きました。
額に信号を伝えるためのコードを貼り付け、
瞼(まぶた)を開いたり閉じたりして、
パソコンに文字を書くのです。
それをパソコンの言語変換ソフトで、
再び音声に換えて、
講演をするわけです。
もちろん、時間がかかるので、その場ですぐに、
というわけにはいきません。
おそらく、何時間いや何日もかかって
完成したものでしょう。
今日は、ぜひ。
ぜひ、ぜひ、皆さんにも講演を聞いていただきたく、
四方君の講演録を下記に披露させていただきます。
きっと皆さんの心に、
優しさと元気をもたらしてくれることでしょう。
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詩人 四方健二・講演録「生かされて生きる」
生きるとは、どういう事なのでしょうか。
あなたは今、生きていますか。
心の底から、生きていると言えますか。
胸に手を当ててみて下さい。
鼓動が響いてくると思います、
温かな血流が伝わってくる事でしょう。
生きていれば、誰もがそうあります。
しかし、ただそれだけで、
人は生きていると言えるのでしょうか。
人は、身体だけで生きているのではありません。
人には、心があります。
身体と精神ともに息づいてこそ、
人は生きていると言えるのではないかと、
私は思っています。
私は重度の身体障害者です。
進行性筋ジストロフィーという難病を背負っています。
進行性筋ジストロフィーとは、
全身の筋肉が萎縮し、破壊され、
徐々にその機能を失っていく病気です。
今の私は、身体どころか、指ひとつ動かせません。
寝たきりの状態にあり、
人工呼吸器がなくては生きていられません。
そんな私ではありますが、
子供の頃には、息を切らして駆け回り、
夕方暗くなるまで、家に帰りつく事はありませんでした。
私が生まれたところは、
自然豊かな能登の漁師町です。
遊ぶ場所には、事欠くことはありませんでした。
時を経て、私は中学生へと、
高校生へと成長していきました。
学生の頃の私はといいますと。
心の趣くままに、何事にも情熱を傾けていました。
興味のある事には、次から次へとトライして。
時には、その情熱が、
良からぬ興味に注がれた事もありましたが。
それはともかくとして。
その当時の私は、最も活動的で、
最も活発に行動していました。
音楽サークルを立ち上げたり。
劇団に加わったり、
アマチュア無線の交信にも勤しんでいましたし。
生徒会活動には、かなり熱を入れていたものでした。
しかし、進行性の病気とは、本当にやるせないものです。
どうあがこうと、病気の進行には抗えず。
歩けなくなり、車椅子へ。
そして、ついには寝たきりの生活を送る事になってしまいました。
進行性筋ジストロフィー。
この病気の本当に恐ろしいところは、
その短命さにあるのです。
かつてこの病気は、
二十歳までの命とされていました。
実際に、二十歳を迎える前に力尽き、
亡くなっていく仲間たちを、
数多く見送ってきました。
その中でも、最も辛かったのは、親友の死でした。
それは、高等部二年生の初秋の事でした。
もう持たないと聞いてからの毎日の病室通い。
見舞うたびに、彼からの反応は鈍くなり、
目からは光が失われていきました。
そんな親友を目の当たりにしておきながら、
私は彼に、何ひとつしてやれませんでした。
あまりにも、自分が情けなく思え。
無力感に苛まれたものでした。
また、この彼の死は、私に拭い去れない
恐怖を植えつける事になりました。
「次は自分かもしれない」
という、重苦しい思いが現実として、
リアルに圧し掛かってきたのです。
今でも、それは重い影となって、
私にまとわりついています。
それでも、現在では私たちを囲む医療環境が進歩し、
対症療法が功を奏すようになり、
命の期限は緩やかなものになったと言えるでしょう。
しかし、いくら対症療法が進んだとはいえ、
短命だという事には変わりはありません。
私自身も、十九歳の時に、
重い呼吸不全に陥ってしまいました。
それは、命の危機を連想するまでに、
深刻なものだったのです。
そんな私を救ってくれたのは、
当時導入されたばかりの体外式といわれる呼吸器でした。
この呼吸器によって、
私は命を永らえることが出来たのです。
あの時、ひとつでも時の歯車が狂っていたら。
おそらく、十九歳の冬に私は死んでいた事でしょう。
そんな私も、今年で四十歳になります。
かつて、私の命は二十歳までだと言われていました。
それを思うと、四十歳という年齢が、
大変重いものに思えてきます。
ここ二十年間の経験は、
本当に貴重な経験ばかりだったように思います。
今、こうして四十歳になるまで生きてこられたことに、
大きな意味と、大きな喜びを感じています。
思い起こせば、よく仲間たちと話していたものでした。
「四十歳まで生きていられたら最高だ」と。
その夢であった年齢を、今年、私は迎えるわけですから、
なんとも不思議なものを感じます。
私は自発呼吸が出来ません。
気管を切開して、人工呼吸器を使用しています。
気管を切開したことで、私は声を失いました。
そのために、思うに任せない事も沢山あります。
ですが、これは生きていくため、仕方がありません。
それでも、時には、たまらない思いに
囚われることがあります。
割り切っているはずなのですが、
複雑な思いもそこにはあるのです。
夢の中での私は、
いつも当たり前のように喋っています。
この夢こそが、私の複雑な心を
物語っていると言えるのではないでしょうか。
さらに、私にはものを飲み込む力がありません。
必要な栄養や水分は、
全て鼻から入っているチューブを通して
胃へと流し込んでいます。
身体を動かせない、声は出せない、
飲めない、食べられない。
こうして挙げてみると、
なかなか重いものがありますね。
人によっては、これを絶望だと言うのかもしれません。
しかし、私はそうは思っていません。
私には、充実した毎日があります。
絶望は陰へと追いやられ、
心を支配することはありません。
とはいえ、この病気によって、
私は多くのものを失いました。
心を許し合った仲間も、
次々と倒れていきました。
わたし独りだけが生き残り、
時には、それを仲間への裏切りだと
感じてしまう事さえあります。
それでも、失うことばかりではありませんでした。
筋ジストロフィーである事により
得られたものもあるのです。
これまでの私の人生には、
身体的にも精神的にも辛い事が数多くありました。
不安と恐怖に押し潰されそうになった事も、
幾度となくありました。
苦しい経験ではありましたが、
逆にその苦境の時にこそ、
私は大切なものを得られたように思います。
先にも触れましたが、私は
深刻な呼吸不全に陥った事がありました。
昼も夜も無く、ままならない呼吸に喘ぐばかりで、
心身ともに無残なまでに衰えてしまっていたのです。
抗えない苦痛と、絶望感に囚われ、
「これまでか」と、
死を覚悟するまでに疲弊していました。
その日も、澱んだ薄暗い病室の中で、
私は、それ以上の闇に沈んでいました。
ふと何かに呼ばれたような気がして、
視線を向けると、そこには、忘れられた一輪挿しに、
萎れた桔梗が残されていました。
私は、「自分と同じ運命か」と、
悲観の眼差しで桔梗を眺めていました。
ところがです、
朽ち果てるばかりだと思っていたその花が、
私の目の前で力強く蕾を開き、
生きいきと花を咲かせたのです。
諦めることを知らず、与えられた命を
誠実に全うしようとする姿勢に、
私の心は震えました。
私の中で熱い力が湧き上がってくるのを感じたのです。
生きたいと、強く思いました。
すると、どうでしょう。
それまではくすんでいた世界が、
たちまち鮮やかさを取り戻していくではありませんか。
苦しいばかりの毎日が続いて、
私は、気づかないうちに、
私自身の作った殻に閉じこもってしまっていたようです。
自分だけの世界しか見えなくなってしまい。
自分は孤独だと思い込んでしまっていたようです。
しかし、広い視野で周りがよく見えるようになると、
それは大きな間違いであったと気がつきました。
多くの人の力が、その真心が、苦しみに喘ぐ私を、
私の命を支えてくれていたのです。
深く感謝しました。
それからというもの、
呼吸不全との暗く孤独な戦いは、
家族や看護師さんたち、先生方との、
共同戦線となりました。
体調の良い時は、共に喜び、
苦しい時には共に歯を食いしばり、
身体的には厳しい毎日でしたが、
心は満たされていました。
幸せにさえ、思えていたものです。
私は支えてくださる皆さんの真心を追い風に、
心ある人たちと力を合わせる事で、
この窮地を乗り切る事ができました。
私は、これまでの人生を通して、
生かされている自分というものを、
強く意識するようになりました。
私は毎日、多くの人々に支えられて生きています。
生かされています。
また、私は、自然と対峙するたびに、
自然の大きな懐に包まれている事を感じるのです。
生かされている安心感を覚えるのです。
私は、生きている事の喜びを、
生かされていることの幸せを、
この身の全てで、
この心の全てで受け止めて生きています。
だからこそ、何気ない毎日が嬉しいのです。
愛おしいのです。
今ある事に、感謝して、
与えられた日々を、精一杯生きる。
不平不満が無いとは言いません。
嫉妬もすれば、妬みもします。
しかし、私は生きているのです。
生かされているのです。
ありがたい事ではありませんか。
不平不満に取り付かれ、
嫉妬や妬みに心を惑わせるなど、
この喜びにくらべると、
本当に小さな事だと思えるのです。
私は日々、生きがいを咲かせ、
希望を持って生きています。
そういう毎日が、私の人生を
充実したものにしてくれているのです。
私は、生かされてここにいます。
生かされている事に感謝しつつ、
自らも生きる姿勢を持って生きています。
そうしてこそ、豊かな人生を
得られるのではないでしょうか。
私は詩作という生きがいを咲かせ、
心豊かに、満たされた日々を送っています。
私は生きています。
今は、自信を持ってそう言えます。
自分の確固たる意識を基に、私らしく、
あるがままに生きています。
私が私であることに、
感謝せずにはいられません。
私は幸せです。
私は恵まれています。
この人生を与えてくれた全てのものに、
全ての人々に、心から感謝しています。
私にも、明日がやってくるのです。
私は、幸せです。
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