「喫茶去(お茶でも召し上がれ)」
松原泰道(「南無の会」元会長)
『致知』2009年5月号
巻頭の言葉より
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中国は唐の時代、禅僧・趙州(じょうしゅう)和尚のもとに、
一人の修行僧が教えを請いにやって来ました。趙州和尚が、
「あなたはここへ初めて来たのか?」
と問うと、僧は答えて、
「はい、初めてまいりました」
すると趙州和尚は言いました。
「喫茶去」(きっさこ/お茶でも召し上がれ)
趙州和尚は、別の訪問僧にも同じことを尋ねました。
その僧は、
「いえ、以前にも伺ったことがあります」
と答えましたが、趙州和尚は同様に勧めます。
「喫茶去」
このやり取りを見て、不思議に思った寺の住職が
趙州和尚に尋ねます。
「老師は、初めて来た人にも、以前来たことがある人にも、
同じに『喫茶去』と言われました。これはどういうわけですか」
すると趙州和尚はまたしても、
「喫茶去」
と答えたのでした。
禅の思想は極めて象徴的で、言句(文字や言葉)を
表面的に捉えると解釈を誤ります。
喫茶去というからお茶にとらわれてしまいますが、
趙州和尚は、ここへ初めて来たのか、
以前ここへ来たことがあるのかと、
未来でも過去でもない、
「いま、ここ」を問題にしているのです。
「いま、ここでお茶を召し上がれ」と。
お茶を飲むということは、日常のありふれた行為です。
しかしその日常の行為が、実は禅そのものなのです。
お茶を飲むことだけではありません。
ご飯を食べること、衣服を着ること、
そうした日常のすべてがそのまま禅なのです。
多忙な現代人は、食事もお茶も、
他のことをしながらいただいて
「ながら族」になりがちです。
しかし、何事も「ながら族」ではいけません。
お茶を飲む時はお茶を飲むことだけに徹する。
ご飯を食べる時も、衣服を着る時も、
ただそのこと一つに徹してすることによって、
人生の受け止め方も違ってくる。
喫茶去とは、そのことを説いているのです。
自分は回り道をしているとか、
自分の本当の仕事は別にあるとか、
何事も一時の腰掛けのつもりで手を抜いてやっていると、
必ず悔いが残ります。
しかし、どんな仕事であれ、
その時に全力を尽くしてやったことは、
後で必ずプラスになって返ってくるものです。
全力を尽くして取り組んでいる限り人生に無駄はない。
これは、私の長い人生から得た持論です。
「さよなら!僕らのソニー」(文春新書)と
「さよなら!伝説のソニー なぜアップルになれなかったのか」
(週刊ダイヤモンドの特集)を読みました。
私たちの年代(37歳)で「SONY」といえば、
自分たちの学生時代にはまさに今のアップルと
同じくらい高いブランド価値があったと思います。
しかし、今の20代前半以下の年代にとっては、
単なる家電メーカーの一つでしかないようです。
つまり、特別な思い入れはないと。
私の家の中を見回しても、
ソニー製品はプレステとデジタルフォトフレームしかありませんでした。
ソニー製品をわざわざ買いたいという動機も特になくなってしまっています。
では、どうしてソニーは昔の輝きを失ってしまったのか?
それは先に挙げた書籍や雑誌の記事を読めばわかるのですが、
少なくとも今の経営陣や次の経営陣では元に戻りそうにありません。
すでに徹底的にかつてのソニーは内部で破壊されているようです。
当社の元社外取締役の方(元大和証券役員)が
こんなことを言っていたのを思い出しました。
「どうして野村證券が一番になったか知っているか?
大和証券や山一証券は内部の出世争いで内部闘争を繰り返したからだ。
その間に野村證券は結束していたので勝ったのだ。
多くの会社が競争に負けるのもダメになるのも、
そのほとんどは内部闘争などによる自滅型なんだよ」
ソニーは自滅したんだなと思いました。
後継者選びに失敗すると、
企業の文化も制度も破壊されてしまいます。
事業に興味のないトップ、自社の製品に愛着がもてないトップになると、
それまでモノづくりで伸びてきた企業には急ブレーキがかかります。
その逆を行ったのがアップルでした。
現在のソニー経営陣はエレキ事業に興味はなさそうです。
ソニーはエンタテインメント企業になってしまうんでしょうね(苦笑)。
それはそれで生き延びればよいのでしょうが、寂しい感じがします。
記事を読む限り、自滅し、復活の芽もすでに摘まれてしまっているようです。
すくなくともエレキの会社としての栄光は取り戻せないでしょう。
映画『スパイダーマン』シリーズがいくらヒットしようと、
私たちの世代からすればソニーの偉大さの証明にはなりません。
残念です。
さよなら!僕らのソニー。
※メルマガ「プレジデント ビジョン」vol.1137編集後記より転載
文章by株式会社ライブレボリューション
代表取締役社長 増永寛之
私が愛知県西尾市にある浄名寺に預けられたのは、
2歳7か月の時です。
幼い頃に両親は亡くなったと聞かされ、
親代わりの庵主様や、世間様の
「お寺の子はいい子だ」という期待の中で育ちました。
同級生からはその逆に、お寺の子であることや、
実の親のないことをからかわれ、
酷い苛めを受けてきましたが
「どんな時も前向きでいよ」
という庵主様の教えを守り、
泣き出したくなる気持ちを必死に堪えながら
幼少期を過ごしました。
* *
張り詰めていた神経の糸が切れたのは、
中学2年の時です。
役所に、ある書類を提出する際、庵主様から
「実はねぇ」と言って、出生の秘密を打ち明けられたのでした。
聞けば、両親は私が幼い頃に離婚し、母親が再婚する際、
娘の私をお寺へ預けたというのです。
自分は生まれてきてはいけない存在だったんだ。
一体何を信じて生きてきたのだろう?
事実を知った私は、頑張るということに疲れてしまいました。
そして3か月間泣き通した後、私が選んだ道は、
髪の毛を金色に染めて、耳にピアスの穴を開け、
あらゆるものに歯向かい、強がって見せることでした。
暴走族の仲間たちと一晩中走り回り、
家出を繰り返す毎日。
14歳で手を出した薬物はその後7年間、
1日としてやむことがなく、私など消えてしまえ、
という思いから、幾度となく自傷行為を繰り返しました。
心配をした庵主様は、私が20歳になった時に
「最後の賭け」に出たといいます。
私を京都の知恩院へ21日間の修行に行かせ、
そこで尼僧になる決意をさせようとしたのです。
金髪のまま無理やり寺へ押し込められた私は訳が分からず、
初めのうちは反発ばかりして叱られ通しでした。
ところが10日目を過ぎた頃、
教科書に書かれてある仏様の教えが、
読めば読むほど、庵主様の生き様そのものと
重なることに気づいたのです。
例えば「忍辱(にんにく)」という禅語があります。
私がグレていた7年間、普通の親であれば
間違いなく音(ね)を上げてしまうような状況で、
庵主様はただひたすら耐え忍んでくれたのだ。
それは親心を越えた、仏様の心というものでした。
また道場長から「少欲知足」という言葉を教わり、
「髪の毛や耳のピアスなど、自分を着飾る物
すべてを取り払っても、内から輝けるようになりなさい」
と言われました。人間は無駄な物の一切を削ぎ落とした時に、
初めて自分にとっての大事なものが見え、
本当の生き方ができるようになるのだというのです。
私はふと、庵主様の生活を思い浮かべました。
庵主様はお洒落もしなければ、
食べる物にお金を掛けたりもしない簡素な暮らしで、
他の楽しみに時間を使うこともなかった。
ではその分、一体何に時間を使っていたか。
そう考えた時に、庵主様はすべての時間を
「私を育てる」という一事に使ったのだと知ったのです。
私の思いの至らなかった陰の部分では、
どれだけ多くの人が自分を支え続けてくれたことか、
御仏の光に照らされ、初めて親のお陰、
世間様のお陰に手を合わせずにはいられなくなりました。
そして教科書を読み進めれば進めるほど、
止めどもなく涙が溢れてきました。
修行の後、お寺に戻った私が庵主様に、
なぜ私を叱ったり、本当の気持ちを
聞かせてくれなかったのかと尋ねたところ、
庵主様は
「人間は、時が熟さなければ分からないことがある。
ひと月前のおまえに私がどれだけよい言葉を聞かせても、
かえって反発を生むだけだった。
いまおまえが分かるということは、
おまえに分かる時がきたということだ。
仏道は待ちて熟さん」
とお話しになりました。
庵主様には1つの願心があり、
私がグレ始めた14歳の時に、10年間は黙って
この子を見守ろうと決めたのだといいます。
そして自らには、何があっても
「平素のように生きよ」と誓いを立てたということでした。
私はいわば、お釈迦様の手の平の上で暴れていた
孫悟空のようなもので、自ら命を絶とうと
人生に背を向けていましたが、
どこまでいっても結局は庵主様の手の平の上にいた。
庵主様が私を慈しんでくださる心は無限に広大で、
私はその大きな大きな慈悲の中に
生かされていたのだと知ったのです。
* *
23歳で剃髪出家をした時、私は庵主様に
「紗蓮」という法名をいただきました。
後にある方から
「美しい蓮の花は、泥まみれの池の中にしか咲かないのだよ。
人生にも、悩みや苦しみはあって当たり前で、
その泥を肥やしにしてこそ大輪の花が咲くのだ」
と教わりました。
振り返れば、14歳から20歳までのどん底の時代が、
私にとってはまたとない、よい肥やしになったと感じています。
今年31歳になった私ですが、現在はお寺でのお勤めの他、
市の教育委員会からの要請で、悩みを抱える子供たちの
自立支援相談や講演活動を行ったりしています。
非行に走る子供たちはそれぞれに、
人に言われぬ苦悩を抱えています。
けれども、だからこそ大きな可能性を秘めている。
人一倍光るようになるよ、この子たちは──。
私はいつもそんな気持ちで子供たちのことを見守っています。
by松原紗蓮(まつばら・しょうれん=浄名寺副住職)
※出典: 『致知』2009年3月号「致知随想」
ある大学でこんな授業があったという。
「クイズの時間だ」
教授はそう言って、大きな壺を取り出し教壇に置いた。
その壺に、彼は一つ一つ岩を詰めた。
壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生に聞いた。
「この壺は満杯か?」
教室中の学生が「はい」と答えた。
「本当に?」
そう言いながら教授は、教壇の下からバケツいっぱいの
砂利をとり出した。
そして砂利を壺の中に流し込み、壺を振りながら、
岩と岩の間を砂利で埋めていく。
そしてもう一度聞いた。
「この壺は満杯か?」
学生は答えられない。
一人の生徒が「多分違うだろう」と答えた。
教授は「そうだ」と笑い、今度は教壇の陰から、
砂の入ったバケツを取り出した。
それを岩と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。
「この壺はこれでいっぱいになったか?」
学生は声を揃えて、「いいえ」と答えた。
教授は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと注いだ。
彼は学生に最後の質問を投げかける。
「僕が何を言いたいのかわかるだろうか」
一人の学生が手を挙げた。
「どんなにスケジュールが厳しい時でも、最大限の努力をすれば、
いつでも予定を詰め込む事は可能だということです」
「それは違う」と教授は言った。
「重要なポイントはそこにはないんだよ。
この例が私達に示してくれる真実は、
大きな岩を先に入れないかぎり、それが入る余地は、
その後二度とないという事なんだ」
「君たちの人生にとって”大きな岩”とは何だろう」
と教授は話し始める。
「それは、仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、
家庭であったり、自分の夢であったり…。
ここで言う”大きな岩”とは、君たちにとって一番大事なものだ。
それを最初に壺の中に入れなさい。
さもないと、君達はそれを永遠に失う事になる。
もし君達が小さな砂利や砂や、つまり自分にとって重要性の
低いものから自分の壺を満たしていけば、
君達の人生は重要でない「何か」に満たされたものになるだろう。
そして大きな岩、つまり自分にとって一番大事なものに割く時間を失い、
その結果、それ自体失うだろう」
「怒鳴られたら、やさしさを一つでも多く返すんです」
三輪 康子(大手ホテルチェーン新宿歌舞伎町店支配人)
どんな仕事でも、相手がある限りクレームはつきもの。
クレームは、端で聞いていて嫌なものです。
言われている本人はもっと嫌でしょう。
苦にして、ストレスをためるのが当然。
ところが、日本一クレーマーが多いと言われる新宿歌舞伎町で、
クレームをものともせずに、逆にクレーマーをファンにしていった
凄腕のホテル支配人がいました。
今日は、その支配人、三輪康子さんのお話です。
三輪さんの着任当初、ホテルはひどい状態でした。
ロビーにはヤクザがたむろし、最上階はヤクザの定宿、
汚水槽には覚醒剤の注射器が浮かび、
従業員はだれもがやめたいと思っていました。
警察の対応も冷ややかでした。
ふつうなら、こんなホテルの責任者というだけで、
気が滅入ってしまうでしょう。
しかし、三輪さんは違いました。
三輪さんは、この状況をなんとか改善しようとしたのです。
まず、ヤクザを泊めない、
クレーマーの要求には粘り強い交渉でNOを言い続ける、
ということに決めました。
そのため、宿泊を断られ怒ったヤクザから
日本刀を振りかざした脅されたこともあります。
しかし、三輪さんは逃げるどころか、逆に一歩前に踏み出し、
「お客様に、私は殺せません」と迫ったそうです。
その態度にひるんだのはヤクザのほうでした。
エレベーター前の宿泊客から「酔客がうるさい」と苦情を言われても、
満室のため部屋交換や値引きには、一切応じませんでした。
その代わり、自分が一晩中エレベーターの前に立って酔客に
「お静かに」と注意することを約束し、
不眠でその約束を果たしました。
約束した泊り客も、結局、ほとんど寝ないで、
三輪さんが約束を守るか、こっそり見張っていたそうです。(笑)
そのうち、ヤクザは仁義を切ってホテルに近寄らなくなり、
悪質なクレーマーも舌を巻いて、三輪氏のファンになりました。
その結果、日本一のクレーマー地帯で、
有名ホテルグループ売上日本1を達成!
2010年度MVP賞受賞!
警察からも表彰。
「神様は乗り越えられる試練しか与えない」
「人を恨んでは前には進めない」
「義理と人情、笑顔と愛嬌」
と、三輪さんは言います。
それにしても、三輪さんは、
どうして、そこまで強くなれるのでしょう。
ご著書によると、郷里、青森の八戸市で
開業医をされていたお父さんの影響だそうです。
と言っても、お父さんは、ヤクザと違って、怒鳴ることも、
声を荒上げることもない優しい人でした。
しかし、貧しい人や困っている人のために、金銭を度外視して、
尽くした人だったお医者さんだったそうです。
そんな尊敬するお父さんの背中を見ながら、
「人を信じること」
の大切さを彼女は教えられます。
だから
「怒っている人に怒り返してはいけない。
怒っている人には、余計やさしい言葉でお返ししなさい」と。
お父さんのこの言葉が、彼女の教訓となったのです。
人の怒りを静めるには、何よりも理解と愛情が必要。
怒っている人は、自分は正しい。
だのに、不当な扱いを受けたと思っているものです。
ですから、
「怒っている人に怒り返してはいけない。
怒っている人には、余計やさしい言葉でお返ししなさい」
というのは効果的な処方なのです。
怒っている人には、やさしさで包む方が、
その人の心を落ちつかせます。
やさしさをもらった人は、変わっていきます。
だんだんと怒りは静まってきます。
そして、時間がたてば、
本来のやさしさを取り戻すことができるんですね。
【出典】三輪康子著『日本一のクレーマー地帯で働く日本一の支配人─
怒鳴られたら、やさしさを一つでも多く返すんです!』
http://amzn.to/GUvEZK
...........................................................................
※以下のメルマガより転載
★あなたの夢を応援するメルマガ★
心の糧・きっとよくなる!いい言葉 2012.3.30 Vol.735
作家 中井俊已
http://www.t-nakai.com
「創造的自己否定」
本名正二(プロントコーポレーション社長)
「人間は成功した理由で失敗する。」
極端なことをいうようだが、
このすさまじい変化の時代に経営に携わる私は、
そのことを肌身で感じている。
過去にいくら素晴らしい成功を収めていても、
いまはそれが通用するとは限らない。
むしろその体験が、そのまま失敗の要因ともなり得る。
過去の成功体験を否定し、変革に挑戦する勇気を持たなければ、
あっという間に時代に取り残されてしまうのである。
かつて、テニスラケットでシェア50%を誇る有力メーカーがあった。
ある時期その市場に、当時としては“邪道”のグラスファイバーで
ラケットを製造する新興メーカーが登場した。
しかし有力メーカーはその新しい動向にまったく関心を示さず、
従来の素材に固執し続けた。
結果的にシェアは急落し、いまやその社名の記憶すら定かでない。
昭和62年にプロントコーポレーションの社長に就任する前、
私は、親会社サントリーの業態開発部で新しいスタイルの
飲食店の開発に取り組んでいた。
新しい店を成功させる方法はいくつかあるが、
業種全体が不振の場合の施策として、
お客さまが満足していない要素を集めて
その逆をやるというのがある。
メニュー、価格、内外装、BGM等々、
不振の要因は様々である。
興味深いのは、不振店のオーナーが
それを自覚しつつも改めようとしないことである。
なぜか。
そのスタイルでかつて成功したことがあるからである。
そのスタイルがもう通用しないと認めることは、
それまでの努力の否定につながるからである。
時代の変化を乗り越えて成功を持統させるためには、
絶えず進化・創造し続けなければならない。
そのためには、いい意味での破壊、
すなわち“創造的自己否定”が必要である。
しかし、破壊と創造という相反する行為を
同時に実行していくことは至難の業である。
ここに経営の難しさがある。
私が、プロントという新しい業態の店を手がけたのは、
ちょうどバブルの絶頂期。
地価は高騰し、飲食店経営で利益を出すことは困難を極めた。
そこで、一つの店に昼はベーカリーカフェ、
夜はダイニングバーという二つの顔を持たせ、
昼夜フルに稼働させることで、高い家賃でも
利益を出せる店づくりに挑戦したのである。
それまでにも喫茶店が夜アルコール類を出したり、
スナックが昼にランチを提供するなど、一つの店で
売り上げの二毛作を狙うところはあったが、
どうしても本業の片手間という印象を免れず、
確固たる利益に結びつかなかった。
これに対してプロントは、昼夜のメリハリを明確にし、
それぞれに本物を追求したところに新しさがあった。
それがお客さまの支持を集め、おかげさまで
バブルの絶頂から崩壊への激動期にも、
継続して業績を拡大することができたのである。
しかし、この成功に安住してはおれない。
私には危機感がある。
店舗の増加でプロント全体の売り上げは
前年比108%と上向いてはいるが、
これは決して成功の尺度にはならない。
むしろこれまでに出店した一店一店が
各地域でどれだけお客さまに愛されているか、
それを示す既存店の売上前年比こそ重視しなければならない。
その尺度ではあいにく98~99%。
外食業界全体から見ると良い数字だが、
1、2%のお客さまからは見放されている事実を
認識する必要がある。
創造的自己否定の必要性を感じる部分に、
店舗デザインがある。
プロントのデザインはグリーンが基調色となっている。
創業当初は、これが強烈なインパクトを生み
業績に寄与してきた。
ところが、時代の変化と共に街並みも変わり、
当初のようなインパクトはもう期待できなくなってきたのである。
この状況下でこれまでの成功体験に固執し、
「わが店のグリーンは素晴らしいでしょう」
と、同じ色調を押し通していったらどうだろうか。
おそらく、いずれお客さまからそっぽを
向かれるときが来るに違いない。
このため当社では、すでに新しいスタイルの実験店を通じて、
今後の方向を見定めつつある。
変化に対応する新発想を生み出す上で
大切なことの一つは、「体験」である。
頭のなかだけで考えたアイデアは、
これからは通用しなくなってくると思う。
どれだけ感性が磨かれるような体験をしたか、
どれだけ本物に触れる体験をしてきたか。
その蓄積がものをいうと思う。
もう一つには「遊び心」である。
ことにサービス業に関していえば、
頭がコチコチの真面目人間よりも、
心のハンドルに遊びのある人間のほうが
いい仕事ができると思う。
遊び心ある人間の発言は、
他とひと味違ってユニークである。
その言葉はたいてい耳に痛いものだが、
会社はそれを受け止めるだけの度量がなければ伸びない。
会社を変えるのは、人と違った発想のできる
ユニークな人間なのである。
短期間に急成長を遂げてきた当社だが、
五年前、その勢いが初めて鈍化した。
ハードの面でいくら検討してもその要因が見えてこない。
行き着いたのは、見えない部分。
すなわち、心や人間力であった。
店の急激な伸びに見合った成長を、そこで働く社員が
十分に遂げていなかったことを痛感した。
そのときから私は、社員の心の教育、
人間力の教育に取り組み始めたのである。
これは当社にとって、ひとつの創造的自己否定といえるかも
知れない。
いま痛感するのは、もはや机上の戦略戦術だけで通用する
時代ではないということである。
もてなしや満足感といった目に見えない部分、
心や人間力の充実がますます重要になってくると確信している。
その確信のもと、社員の心の教育、
人間的な教育に一層力を注ぎ、
これからも末永く皆さまに愛される
お店づくりを目指してゆきたい。
※出典:『致知』2000年3月号「致知随想」
(肩書きは『致知』掲載当時のものです)
感謝することの大切さについて、ある人に聞いたお話です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あるおばあさんのお話です。
そのおばあさんは、家族も親戚もおらず孤独でした。
自分の悩みをある人に、こう打ち明けました。
「自分はもう年老いていて病気で、
入院しているので、人にお世話になりぱなし。
若い頃と違って、もう人の役に立つことはできない。
もう早く死んだ方がいい」
それは聞いた人はこう言いました。
「いいえ、おばあさん。おばあさんにも、
人の役に立つこと、できることがありますよ」
おばあさんは驚いて、その人の話に耳を傾けました。
「たとえば、おばあさんに親切にしてくれる人、
世話をしてくれる人に心から感謝するんです。
そして「ありがとうございます」と言うんです。
それだけでも、
おばあさんは人から喜ばれる人なんですよ」
それを聞いておばあさんは、なんだそんなことかと
がっかりしました。
しかし、おばあさんは、これまでのことを振り返ってみて、
ふと気づきました。
病院に入って、自分は不満ばかりを言ってきた。
あれがない、これがない、
あそこが痛い、ここが痛いと・・・。
看護師たちは、それに対応するのが
仕事だから当たり前だと思ってきた。
少しでも対応が遅いとイライラして、
皮肉や嫌味の一つも言わねば気がすまなかった。
ああ自分はなんと感謝のない日々を送ってきたことか。
それで、おばあさんは、それから自分と関わる人に、
感謝の気持ちを表すことにしたのです。
自分の病室にやってきて世話をしてくれる
看護師さんや掃除担当の方に
「ありがとうございます」
と、その人の顔をちゃんと見て
頭を下げるようになりました。
すると、その人は笑顔になり、
おばあさんも嬉しくなるのでした。
次第に、おばあさんの心から不平不満が消えていきました。
何週間か後、ある見知らぬ婦人が菓子包みをもって
おばあさんの元にやってきました。
「わたしは、この病院にボランティアに来たことのある
中学生の母親です。
うちの息子は、ずっと不登校だったんです。
けれど、この病院で患者さんたちと接するうちに
おかげさまで元気になりました。
特に303号室のおばあさんのことをよく口にして・・・」
303号室のおばあさんとは自分のこと。
おばあさんは、その男子中学生のことを覚えていました。
その子は、食事のお盆や食器を朝昼晩、
体が思うように動かないおばあさん代わりに片付けくれたのです。
「ああ、あの子のお母さんですか・・・」
「はい、うちの子がお世話になりました」
「いえいえ、本当にいい子で、
お世話になったのはわたしの方ですよ」
「はい、おばあさんがそう言って、
感謝してくれるのをうちの子、とっても喜んでいました。
自分も人の役に立てるのが分かったって。
それから、あの子、学校に行くようになったんです。
今まで、私がどんなに説得しても行かなかったのに・・・」
そこでお母さんは泣き出した。
「あの子、ちゃんと勉強して、将来は病院に勤めたいって・・・。
目を輝かせながら言うんです。
あの子のあんないい顔を見たのは、もう何年ぶりです。
おばあさんのおかげです。本当にありがとうございます」
おばあさんも、涙がこみ上げてきた。
自分はただ少年に「ありがとう」と感謝をしただけなのに・・・。
それをこんなに喜んでくれる人がいる。
「おばあさんにも、人の役に立つこと、できることがありますよ」
あの言葉をおばあさんは今一度噛み締め、
目の前の婦人に深く頭を下げながら、
手を合わせて感謝するのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
おばあさんは、ただ感謝しただけです。
でも、まわりの人に喜びをもたらしました。
おばあさん自身も幸せになりました。
感謝することで人の存在を大切に思えます。
感謝することで自分の存在意義に気づきます。
感謝することで私たちは人に役立つことができます。
感謝することで私たちは喜び合えます。
★幸運になれるヒント★
「ありがとう」は喜びの源です。 (^.^)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※出典:あなたの夢を応援するメルマガ
『心の糧・きっとよくなる!いい言葉 』より転載
2012.1.23 Vol.716
作家 中井俊已
http://www.t-nakai.com
「鳴かぬならそれもまたよしほととぎす」
「鳴かぬなら」の第一句に、天下取りを果たした
戦国時代の三人の武将が三様の第二句をつけた
有名な「ほととぎす」の句がある。
信長は「殺してしまえ」といった。
秀吉は「鳴かせてみよう」といった。
家康は「鳴くまで待とう」といった。
もちろん史実ではない。
だが、三者三様の個性、やり方、歴史的役割などを
あますところなく表現して見事である。
以前、ある人が八百人ほどの経営者にこの
「ほととぎす」の句を示し、
「あなたはどのタイプか」と質問した。
ほとんどの経営者がそれぞれ信長、秀吉、家康になぞらえて、
「自分は何々型である」と回答した。
その中でたった二人だけ、自分はどのタイプでもない、
と答えた経営者がいた。
「では、あなたならどう詠むか」
とさらに質問すると、一人はこう答えた。
「鳴かぬならそれもまたよしほととぎす」
もう一人はこう答えた。
「私は俳人ではないのでうまく詠むことはできないが、
その三つのタイプには入らない」
前者が松下幸之助氏であり、後者が本田宗一郎氏である。
人間は選択肢を与えられると、
その枠の中に閉じこもってものごとを考えてしまいがちである。
与えられた枠、既成概念を踏み越えて
発想を飛翔させることが難しい。
松下氏も本田氏もそれができたからこそ、
新しい流れをつくり得たのだろう。
さて、時代はいま、いよいよ混迷の度を加え、閉塞感が色濃い。
これを突き抜け、新しい流れをつくるには何が必要か。
歴史の中に、企業経営の中に、
新しい流れをつくってきた人たちがいる。
そこから流れをつくり出す条件を探り、学ばなければならない。
流れをつくる。
そのためにわれわれ日本人がどのような発想に立ち、
何をなすかを見定めるのは、焦眉の急なのである。
『致知』2001年5月号
特集「流れをつくる」より
北陸地方随一の冠婚葬祭チェーンを育て上げた
オークスグループ創業者・奥野博氏の
心にしみるお話をご紹介します。
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「どん底の淵から私を救った母の一言」
奥野博(オークスグループ会長)
『致知』1998年8月号
特集「命の呼応」より
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【記者:昭和四十二年、四十歳のときに経験された倒産が、
今日の奥野会長の土台になっているようですね】
倒産が土台とは、自分の至らなさを
さらけ出すようなものですが、
認めないわけにはいきません。
戦後軍隊から復員し、商社勤務などを経て、
兄弟親戚に金を出してもらい、
事業を興したのは三十歳のときでした。
室内設計の会社です。
仕事は順風満帆でした。
私は全国展開を考えて飛び回っていました。
だが、いつか有頂天になっていたのですね。
足元に忍び寄っている破綻に気づかずにいたのです。
それが一挙に口を開いて。
【記者:倒産の原因は?】
「滅びる者は、滅びるようにして滅びる」。
これは今度出した本の書き出しの一行です。
倒産の原因はいろいろありますが、
つまるところはこれに尽きるというのが実感です。
私が滅びるような生き方をしていたのです。
出資者、債権者、取引先、従業員と、
倒産が社会に及ぼす迷惑は大きい。
倒産は経営に携わる者の最大の悪です。
世間に顔向けができず、私は妻がやっている美容院の二階に
閉じこもり、なぜこういうことになったのか、考え続けました。
すると、浮かんでくるのは、
あいつがもう少し金を貸してくれたら、
あの取引先が手形の期日を延ばしてくれたら、
あの部長がヘマをやりやがって、
あの下請けが不渡りを出しやがって、
といった恨みつらみばかり。
つまり、私はすべてを他人のせいにして、
自分で引き受けようとしない生き方をしていたのです。
だが、人間の迷妄の深さは底知れませんね。
そこにこそ倒産の真因があるのに、気づこうとしない。
築き上げた社会的地位、評価、人格が倒産によって
全否定された悔しさがこみあげてくる。
すると、他人への恨みつらみで血管がはち切れそうになる。
その渦のなかで堂々めぐりを繰り返す毎日でした。
【記者:しかし、会長はその堂々めぐりの渦から抜け出されましたね】
いや、何かのきっかけで一気に目覚めたのなら、
悟りと言えるのでしょうが、凡夫の悲しさで、
徐々に這い出すしかありませんでした。
【記者:徐々にしろ、這い出すきっかけとなったものは何ですか】
やはり母親の言葉ですね。
父は私が幼いころに死んだのですが、
その三十三回忌法要の案内を受けたのは、
奈落の底に沈んでいるときでした。
倒産後、実家には顔を出さずにいたのですが、
法事では行かないわけにいかない。
行きました。
案の定、しらじらとした空気が寄せてきました。
無理もありません。
そこにいる兄弟や親族は、私の頼みに応じて金を用立て、
迷惑を被った人ばかりなのですから。
【記者:針の莚(むしろ)ですね】
視線に耐えて隅のほうで小さくなっていたのですが、
とうとう母のいる仏間に逃げ出してしまいました。
【記者:そのとき、お母さんはおいくつでした?】
八十四歳です。母が「いまどうしているのか」と聞くので、
「これから絶対失敗しないように、
なんで失敗したのか
徹底的に考えているところなんだ」
と答えました。
すると、母が言うのです。
「そんなこと、考えんでもわかる」
私は聞き返しました。
「何がわかるんだ」
「聞きたいか」
「聞きたい」
「なら、正座せっしゃい」
威厳に満ちた迫力のある声でした。
【記者:八十四歳のお母さんが】
「倒産したのは会社に愛情がなかったからだ」
と母は言います。心外でした。
自分のつくった会社です。
だれよりも愛情を持っていたつもりです。
母は言いました。
「あんたはみんなにお金を用立ててもらって、
やすやすと会社をつくった。
やすやすとできたものに愛情など持てるわけがない。
母親が子どもを産むには、死ぬほどの苦しみがある。
だから、子どもが可愛いのだ。
あんたは逆子で、私を一番苦しめた。
だから、あんたが一番可愛い」
母の目に涙が溢れていました。
「あんたは逆子で、私を一番苦しめた。
だから、あんたが一番可愛い」
母の言葉が胸に響きました。
母は私の失態を自分のことのように引き受けて、
私に身を寄せて悩み苦しんでくれる。
愛情とはどういうものかが、痛いようにしみてきました。
このような愛情を私は会社に抱いていただろうか。
いやなこと、苦しいことはすべて人のせいにしていた
自分の姿が浮き彫りになってくるようでした。
「わかった。お袋、俺が悪かった」
私は両手をつきました。
ついた両手の間に涙がぽとぽととこぼれ落ちました。
涙を流すなんて、何年ぶりだったでしょうか。
あの涙は自分というものに気づかせてくれるきっかけでした。
「打つ手は無限」
すばらしい名画よりも
とてもすてきな宝石よりも
もっともっと大切なものを
私は持っている
どんな時でも
どんな苦しい場合でも
愚痴は言わない
参ったと泣き言を言わない
何か方法はないだろうか
何か方法はあるはずだ
周囲を見回してみよう
いろんな角度から眺めてみよう
人の知恵も借りてみよう
必ず何とかなるものである
なぜなら打つ手は常に
無限であるからだ
by滝口長太郎