■1.「誠の碑」■
東京都板橋区の常盤台交番の前に「誠の碑」が建てられてい
る。高さ約170センチの石碑で、直径45センチの赤い球を
3本の脚が支えるというデザインである。
平成19(2007)年2月、東武東上線の踏切で、女性を救おう
として電車にはねられ死亡した宮本邦彦警部を称え、地元住民
が建立したものである。全国から420万円の寄付が集まった
という。
赤い球体は、危険を顧みずに女性を救おうとした勇気の表現
であるという。それを支える3本の石柱は、宮本警部が警察学
校の卒業アルバムに書いたという「誠実」「誠心」「誠意」の
三つではないか。
警察官としての誠実・誠心・誠意が、人を救うために勇気あ
る行動を生み出した。そのような宮本警部の生き方を、この石
碑は子どもたちに伝えている。
その宮本警部を描いた絵本が『伏てぞ止まん ぼく、宮本警
部です』[1]。幼い子どもたちを、立派な日本人に育てるため
に、ぜひ読ませてあげたい絵本である。
■2.「世の中は嘘やサギまがいがまかり通っているが」■
宮本警部は昭和28(1953)年2月、札幌に生まれた。
子どもの頃、4月1日のエイプリル・フールに、宮本少年は
姉弟と三人で父親の晩酌に悪ふざけをした。お酒のかわりにお
湯を入れた徳利を差し出して、「とうさん、お疲れさま。どう
ぞ」と酌をしたのである。
「珍しいな」と嬉しそうに飲み干した父親の顔色が変わって、
宮本少年はさんざんに叱られた。母親がなだめた。
今日は4月1日、エイプリル・フールですよ。あまり厳
しく叱らないで。
かあさん、そんな言い訳で子どもたちを庇(かば)うん
じゃない。世の中は嘘やサギまがいがまかり通っているが、
せめて家族の間でだまし合いだけはいやなんだ。
家族はいつも信頼し合うのが、とうさんとかあさんの願
いですからね。
こういう家庭で育った宮本少年は、嘘をつかない誠実さがな
によりも大切と信じたのだろう。
学校では読書が大好きで、目立たない子どもだった。それ
なのに、学級委員に選ばれた。
母親が「へぇー、すごいじゃないの。意外に人気があるんだ
ね」と驚くと、宮本少年はこう答えた。
そうじゃないんだ。もうすぐ修学旅行だけど、みんなハ
メを外して遊びたいものだから、規則を守る役目をぼくに
押し付けたんだよ。代表で先生に叱られるのもぼくなんだ
から、、、
そう言いつつも、宮本少年は「叱られ役」を誠心誠意、果た
したに違いない。
■3.「伏してぞ止まん」■
中学に入ると、宮本少年は新聞配達を始めた。冬の寒い朝、
ふだんは黙ってみている父親が力を貸してくれた。
少し手伝ってやろう。いったん始めたからには途中で投
げ出すなよ。「伏してぞ止まん」だぞ、邦彦!
「伏してぞ止まん」は、いったん始めたからには、前を向いて
うつ伏せに倒れるまで止めるな、という父親の口癖だった。宮
本少年はそれから10年間、新聞配達を続けた。父親の教えを
誠心誠意、実行したのである。
高校、大学を出て、宮本青年は警視庁から内定通知を受け取
り、6か月間の警察学校に入った。そこでは厳しい訓練に明け
暮れた。特に剣道は難関だった。
卒業までに必ず段位を取ること。しかし宮本、お前の腰
つきではとても無理だなあ。
はい、今日も居残り稽古をお願いします。
宮本、お前の自転車運転は危なっかしいぞ。パトロール
に自転車は欠かせないのに。
夜の運転特訓をお願いします。
宮本青年は剣道にも自転車にも、誠心誠意取り組んだ。そし
て何とか、卒業式を迎えた。
卒業おめでとう。実は宮ちゃんだけは「初段」無理だろ
うと噂し合っていたんだよ。よく頑張ったなあ。
警察学校で自転車運転の指導をしたのは前代未聞だと教
官が笑っていたよ。でも他人の目をちっとも気にしないと
ころが、宮ちゃんの偉いところだね。
いつだって最善を尽くすことがぼくの取り柄だから。
卒業アルバムには「誠実・誠心・誠意 宮本」と寄せ書きを
した。
宮本青年は、卒業後も剣道の稽古をこつこつと続け、ついに
は三段になった。
■4.「ぼくの希望は駐在所勤務!」■
同期生の間で、将来の志望が話題になった事があった。皆が
刑事や公安、科学捜査官、機動隊などと志望を語る中で、ニコ
ニコしながら聞いている宮本青年にお鉢が回ってきて、こう答
えた。
ぼくの希望は駐在所勤務!
「ふーん、宮ちゃんらしいなぁ」と皆は顔を合わせて笑った。
その願いがかなって、宮本青年は東京都町田市の南大谷駐在
所で警察官の仕事を始めた。住民の中に溶け込み、仕事に自信
と誇りを覚えるようになった。「みんなが安心して暮らせるよ
うに」が口癖となった。
やがて結婚し、長男が生まれた。夜勤明けの昼食に妻が作っ
てくれる特製焼きソバが、宮本さんの大好物だった。
キャンピング・カーを買って、家族で日本中を巡るのが、宮
本さんの夢だった。妻と息子が、かけがえのない宝だった。
■5.町のお巡りさん■
平成16(2004)年、最後の職場となった板橋区の常盤台交番
に移った。警察学校卒業以来、すでに27年が経っていた。こ
こでも多くの子供たちを守ることが、宮本さんの大事な仕事だっ
た。
ピッピッピッ、ここは学校の近くだから徐行運転で。子
供たちの下校時は特に注意して。
あ、もしもし。先ほどお宅のきよ美ちゃんが、道でお金
を拾い交番まで届けてくれました。うんと褒めてあげて下
さいね。
ピッピッピッ! そこの中学生たち。自転車の二人乗り
は危険だから止めて。
子供たちまでが名前を覚えて「宮本さん」と呼びかける。
宮本さん、お早うございます。
やあ、お早う、元気だね。よそ見しないで車に気をつけ
よう。
自転車の鍵を失くして困っていた子供に、宮本さんはロック
をはずして、家に帰れるようにしてあげた。
何でも出来るんだね、宮本さんは。
修理のプロから教わったことがあるのさ。役に立って良
かった。
まさに町のお巡りさんの鑑(かがみ)だった。
■6.運命の日■
平成19年2月6日、運命の日がやってきた。「宮本さん、
大変だよ。女の人が線路に立っている」と通報があった。宮本
さんはすぐに駆けつけて、女性を交番に連れてきた。
ほっといてよ。私、死にたいんだから。
いや、死んじゃいけないよ。少し落ち着いて。
すきを見て、女性は交番を飛び出し、踏切から線路に入り、
「死にたい」と叫んだ。宮本さんは後を追い、必死に連れ戻そ
うとした。
そこに急行電車がやってきた。運転手は懸命に急停車を試み
たが、とても間に合わなかった。
事故現場に急いだ駅員や警察官たちは、ホーム下のわずかな
隙間に女性をかばって身を投げ出した宮本さんの姿を見つけた。
女性は無事だったが、宮本さんは重傷を負った。
■7.小学生たちからの見舞いの手紙■
入院した宮本さんに、近所の小学生から、たくさんの手紙や
千羽鶴が届けられた。
自分の命のことを考えずに人の命を救ってすごいですね。
私は宮本さんにあこがれました。早く元気になってくださ
い。
こんにちは。いつもぼくたちを見守ってくれて本当にか
んしゃしています。まるで神さまみたいに守ってくれるな
んてすごいです。
宮本さんが事故にあう直前に、自転車の鍵をなくして助けて
貰った小学生からも、こんな手紙が届いた。
宮本さんを板橋区のめいよに思います。早くよくなって
ください。
■8.「誠の火 燃やしつづけし」■
しかし、小学生や家族の願いもむなしく、6日後に宮本さん
は亡くなった。また、大勢の小学生から、「宮本さん。今まで
ありがとうございました」と感謝の手紙やお悔やみの言葉が届
けられました。
葬儀の席で、妻はこう挨拶した。
夫の人間性、性格から考えて、これも天命として受け入
れようと努力しています。お父さんの行動を誇りに思いま
す。
板橋警察署の裏門にはキンモクセイが記念植樹され、碑には
警視総監の次のような言葉が刻まれた。
宮本邦彦警部の崇高な警察官魂を末永く継承するため、
ここに植樹する。
そして多くの人々からの寄付が寄せられ、冒頭の「誠の碑」
が建立された。碑文を揮毫した小山天舟・日本書道美術館長の
歌が記されている。
誠の火 燃やしつづけし 君がみ魂
受け継ぎゆかむ いつの世までも
■9.勇気と誠実・誠心・誠意■
[1]は、宮本警部が一人称で語るスタイルの絵本であるが、
その中にこんな言葉が出てくる。常盤台交番前の大銀杏(おお
いちょう)の梢(こずえ)から、子供たちを見下ろす宮本警部
の霊が語る、という設定である。
自分のことばかりにこだわると、勇気なんか出ないなぁ。
ぼくは警察官になってから、いつも、だれかを助けたい、
みんなのために少しでも力になろうと、それだけを努めて
きたつもりさ。いざとなったら予想以上の勇気が湧いたよ。
[1,p26]
これは絵本の著者が想像して書いた一節だろうが、宮本警部
の生き様をよく表しているのではないか。
宮本警部が亡くなった後に送られてきた小学生からの手紙に
も、次のような一節があった、という。
男の子の自転車をなおしてあげていたように、ふだんど
んな人にもやさしくしていたから、ふみきりの中の人を助
けようという勇気が出たのだと思いました。[1,p30]
この小学生の言うとおり、「だれかを助けたい、みんなの
ために少しでも力になろう」と思う「誠実」「誠心」「誠意」
が、身の危険を顧みずして女性を救った「勇気」を生み出し
たのである。
とすれば、冒頭の「誠の碑」で、「誠実」「誠心」「誠意」
の3本の石柱が、「勇気」を表す赤い玉を支えている、という
姿そのままである。
小学生たちの手紙からは、多くの家庭で宮本警部のことを家
族で話し合った様子が窺われるという。小学生や幼稚園などの
子どもを持つ家庭では、ぜひこの絵本を子どもたちと一緒に読
んで、「勇気」とは、「誠実」「誠心」「誠意」とは何か、宮
本警部の生き様に沿って、話し合ってみてはどうだろうか。
(文責:伊勢雅臣)
※メルマガ「 国際派日本人養成講座」 H20.11.30より転載
幕末の天才児と言われた男、
長州の高杉晋作。
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の中では
「まるで雲に乗った孫悟空ですよ。
雲から落ちて絶対絶命に立ちいたっても、
ふたたび雲を呼んでまた三千世界を駆けめぐる。
二千年来の英雄児ですな。」
竜馬の社中の片腕、陸奥陽之助に評されている。
幾多の困難な戦いの中での彼は、
天馬空を往くような奇想のもちぬしで、
しかもことごとく図にあたっている。
そんな高杉晋作の秘術のタネはただひとつ。
それは、困った、ということを金輪際いわない、
ということだという。
それが彼の自戒だそうだ。
高杉晋作は平素、同藩の同誌に、
「俺は父からそう教えられた。
男子は決して困った、という言葉を吐くなと」
と、語っていた。
どんな事でも周到に考えぬいたすえに行動し、
困らぬようにしておく。
それでなおかつ窮地におちた場合でも、
「こまった」
とはいわない。
困った、といったとたん、
人間は智恵も分別も出ないようになってしまう。
「そうなれば、窮地が死地になる。
活路が見出されなくなる」
というのが、高杉の考えだった。
「人間、窮地におちいるのはよい。
意外な方角に活路が見出せるからだ。
しかし死地におちいればそれでおしまいだ。
だからおれは困った、の一言は吐かない」
と、高杉はそう語っていたという。
...............................................
なるほど、簡単に「困った」という言葉は
使わない方がいいようですね。
「すぐやる、必ず、できるまでやる」
永守重信氏(日本電産社長)の記事より
信じる通りになるのが人生であるということですね。
僕はこの言葉を自分で色紙に書いて、
目のつくところに置いています。
自分でこうなりたいと思っていることもなれないのに、
思わないことが実現するわけは絶対にないですから。
だから信じる通りになるのが人生ということですな。
しかし世の中の人はみんな信じない。
頭のいい人ほど先が見えるから信じませんね。
できるわけがないと思ってしまう。
だからむしろ鈍才のほうが教育しやすいですね。
創業間もないころの日本電産は、
私の家の一室で図面を引き、桂川の堤のそばにあった
30坪ほどの染め物工場の1階を借りて、
旋盤とボール盤、プレス機を1台ずつ入れて
仕事を始めたんです。
どこへ行っても仕事はもらえず、
やっと受注できた仕事といえば
過酷な注文がつくために
ほかのメーカーのどこもやらないような仕事ばかり。
技術者みんなに言うと絶対無理だと言う。
そういうときはみんなを立たせて、
いまから出来る出来ると100回言おうというわけです。
「出来ます。出米ます。出来ます……」。
「どうや」と。
「いや出来ません」。
今度は1,000回言う。
そうすると不思議なことに
だんだん出来る気分になってくるんです。
そういう気分になったところで一気に始める。
すると、客先の要求する性能に及ばないまでも
かなりレベルの高い製品が仕上がる。
こうやって日本電産の技術力が蓄積されていったんです。
このときに「とても無理だ」「不可能だ」
とあきらめていたら、日本電産は
とっくに倒産していたと思います。
社員によく言うんです。
「物事を実現するか否かは、
まずそれをやろうとした人が“出来る”と
信じることから始まる。
自ら“出来る”と信じたときに
その仕事の半分は完了している」
とね。
※出典:『致知』1999年7月号
特集「切に思うことは必ずとぐるなり」
『失意泰然、得意冷然(淡然)』
うまくいかない時は焦らずにゆったりとした気持ちで、
好調なときにはおごることなく淡々と
自分にとって不利だ、と思っていたことが有利なことだったり、
有利だと思っていたことが不利なことだったり、
人生とはおもしろいものですね。
一病長命
僕はね、小さい頃から身体が弱かった。
数え年二十歳のの夏に、浜寺の海水浴場に行きましてな。
帰りの電車の中で何やしらん胸がこそばゆくなってきた。
そして咳をしたんです。
そしたら、ぱっと血痰が出た。
ぼくには兄弟が八人ありましたが、
そのときすでに六人亡くなっていまして、
姉とぼくだけが残っていたんです。
兄貴も、その次の兄貴も、みんな結核で死んでいましたからね、
自分もなれへんかと心配していたんです。
お医者さんは
「しばらく故郷に帰って養生しなさい。
軽いものやから心配ありません」
と注意してくださった。
ところが、僕には帰るべき家がないんですよ。
両親は死んでいますし、在所に親戚というものがない。
ですから、これはやはり運命だから仕方がない、
なるべく無理せず勤務して養生しよう。
それでだめだったら仕方がない。
こう考えざるを得なかったですね。
蓄えはありませんし、その時分、日給制ですからな。
休んだら、もうその日から生活に困る。
だから、一週間出勤しては一日休んだりという状態を
一年あまりつづけたんです。
ところが幸いにして進行しなかった。
けれでも根治はしない。
風邪をひきやすいし、風邪をひけば微熱が出るというようなことで
一年に何回か寝込んでいました。
五十歳くらいまで、その繰り返しでしたな。
そんな中で、いつの頃からか、
自分は弱く生まれついているんだから、
それを無理に丈夫にするということを
考えない方がいいんじゃないか、
ごく自然に、弱い身体のまま維持したら
いいんじゃないかということを考えましてね、
病気を恐れず大事にしていこう、
病気と仲よくしていこう、
こういうつもりで今日までやってきました。
一病長命といいますが、このことでしょうね。
※出典 : 松下幸之助「人生談義」より
松原紗蓮(しょうれん)さん(尼僧)の随想
「泥を肥やしに咲く花」より
................................................
詳細は省きますが、松原さんは両親の離婚により、
2歳7ヶ月の時に、愛知県の浄名寺に預けられます。
その事実が分かったのは中学2年の時。
自分の生い立ちを知った少女は、
それまでの聞き分けのよい少女から一変、
髪は金髪、耳にピアス、暴走族の仲間に交じり、
薬に手を出し、幾度も自傷行為を繰り返す。
しかし、そんな彼女を事実上の育ての親である庵主は
一切とがめず、松原さんが20歳になった時、
断固として寺修行に行かせ、立ち直らせたのです。
後日、自分の愚かな行為を反省するまでに成長した松原さんが
「なぜ、私を叱らなかったのか」
と訊ねると、庵主はこう言ったといいます。
「人間は、時が熟さなければ分からないことがある。
ひと月前のおまえに私がどれだけよい言葉を聞かせても、
かえって反発を生むだけだった。
いまおまえが分かるということは、
おまえに分かる時がきたということだ。
仏道は待ちて熟さん」
これはすごい言葉ですね。
このひと言を発した庵主さんはただ者ではないと思います。
あらゆるものに機縁がある。
人が言葉と出合うのにも機縁がある。
人間は生まれて死ぬまで、どのくらいの言葉と出合うのでしょうか。
おそらく無数・無限の言葉と出合います。
その中で、ある時、ストンと心に落ちる言葉がある。
心の土壌と、言葉の種がうまく合致した時、
その言葉はその人の心の中で大きく成長し、
その人の運命を招来する力となる。
そんなふうに思います。
※『致知』3月号「致知随想」より
「人間の悲しい性」
これは時折、講演で話すんですが、
「泥棒と悪口をいうのと、どちらが悪いか」。
私の教会の牧師は「悪口のほうが罪深い」といわれました。
大事にしていたものや高価なものを取られても、
生活を根底から覆されるような被害でない限り、
いつかは忘れます。
少しは傷つくかもしれませんが、泥棒に入られたために
自殺した話はあまり聞かない。
だけど、人に悪口をいわれて死んだ老人の話や
少年少女の話は時折、聞きます。
「うちのおばあさんたら、食いしんぼうで、
あんな年をしてても3杯も食べるのよ」
と陰でいった嫁の悪口に憤慨し、
その後一切、食物を拒否して死んだ、という話があります。
それと、精神薄弱児の3割は妊婦が
3か月以内に強烈なショックを受けたときに
生まれると聞いたことがありますが、
ある妻は小姑に夫の独身時代の素行を聞き、
さらに現在愛人のいることを知らされた。
それは幸せいっぱいの兄嫁への嫉妬から、
そういうことをいったのです。
この小姑の話に、ちょうど妊娠したばかりの妻は
大きなショックを受け、生まれたのは精神薄弱児だったそうです。
恐ろしい話です。
私たちの何気なくいう悪口は人を死に追いやり、
生まれてくる子を精神薄弱児にする力がある。
泥棒のような単純な罰とは違うんです。
それなのに、私たちはいとも楽しげに人の悪口をいい、
また聞いています。
そしてああきょうは楽しかった、と帰っていく。
人の悪口が楽しい。これが人間の悲しい性です。
もし自分が悪口をいわれたら夜も眠れないくらい、
怒ったり、くやしがったり、泣いたりする。
自分の陰口をきいた人を憎み、
顔を合わせても口もきかなくなるのではないでしょうか。
自分がそれほど腹が立つことなら、
他の人も同様に腹が立つはずです。
そのはずなのに、それほど人を傷つけるうわさ話を
いとも楽しげに語る。
私たちは自分を罪人だとは思っていない。
罪深いなどと考えたりしない。
「私は、人さまに指一本さされることもしていません」
私たちはたいていそう思っています。
それは私たちは常に、2つの尺度を持っているからです。
「人のすることは大変悪い」
「自分のすることはそう悪くない」
自分の過失を咎(とが)める尺度と、
自分以外の人の過失を咎める尺度とは
まったく違うのです。
* *
1つの例えをいいますとね、
ある人の隣家の妻が生命保険のセールスマンと浮気をした。
彼女は
「いやらしい。さかりのついた猫みたい」
と眉をひそめ、その隣家の夫に同情した。
何年か後に彼女もまた他の男と通じてしまった。
だが彼女はいった。
「私、生まれて初めて、素晴らしい恋愛をしたの。
恋愛って美しいものねえ」
私たちはこの人を笑うことはできません。
私たちは自分の罪がわからないということでは、
この人とまったく同じだと思います。
※『致知』1994年12月号 特集「人間の悲しさ」より
~作家・三浦綾子さんのお話「人間の悲しい性」~
ソニー創業者・井深大氏が語ったリーダー論──
現役を退いたソニーの井深大(いぶか・まさる)さんの講演会で
1時間ほどリーダーシップの話をされましたが、
私にはよく分からなかった。
すると終了後に、ある女性が手を挙げて
「失礼ですが、いまのお話はよく分かりませんでした。
私のような主婦にでも分かるように話をしてくれませんか」
と言ったんです。
司会者は大慌てでしたが、さすがは井深さんですね。
ニコッと笑って、こんなお話をされました。
「ソニーの社長時代、最新鋭の設備を備えた厚木工場ができ、
世界中から大勢の見学者が来られました。
しかし一番の問題だったのが便所の落書きです。
会社の恥だからと工場長にやめさせるよう指示を出し、
工場長も徹底して通知を出した。
それでも一向になくならない。
そのうちに『落書きをするな』という落書きまで出て、
私もしょうがないかなと諦めていた。
するとしばらくして工場長から電話があり
『落書きがなくなりました』と言うんです。
『どうしたんだ?』と尋ねると、
『実はパートで来てもらっている便所掃除のおばさんが、
蒲鉾(かまぼこ)の板2、3枚に、
「“落書きをしないでください
ここは私の神聖な職場です”
と書いて便所に張ったんです。
それでピタッとなくなりました』
と言いました」
井深さんは続けて
「この落書きの件について、
私も工場長もリーダーシップをとれなかった。
パートのおばさんに負けました。
その時に、リーダーシップとは上から下への
指導力、統率力だと考えていましたが、
誤りだと分かったんです。
以来私はリーダーシップを“影響力”と言うようにしました」
と言われたんです。
リーダーシップとは上から下への指導力、統率力が基本にある、
それは否定しません。
けれども自分を中心として、
上司、部下、同僚、関係団体……
その矢印の向きは常に上下左右なんです。
だから上司を動かせない人に
部下を動かすことはできません。
上司を動かせる人であって、
初めて部下を動かすことができ、
同僚や関係団体を動かせる人であって、
初めて物事を動かすことができるんです。
よきリーダーとはよきコミュニケーターであり、
人を動かす影響力を持った人を言うのではないでしょうか。
リーダーシップとは時と場合によって様々に変化していく。
固定的なものではありません。
戦場においては時に中隊長よりも、
下士官のほうが力を持つことがある。
ヘッドシップとリーダーシップは別ものです。
あの便所においては
パートのおばさんこそがリーダーだった。
そうやって自分が望む方向へ、相手の態度なり行動なりが
変容することによって初めてリーダーシップが成り立つのです。
『致知』2008年2月号
特集「将の条件 ~リーダーはろうそくになれ~」より
http://www.chichi.co.jp/monthly/200802_index.html
■「新人ながら凄い男だ」
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
静岡県の富士山の麓に「地獄の訓練」で
知られる管理者養成学校があります。
ここでは13日間の合宿生活を通して
厳しいビジネスマン生活を乗り切る知恵を身につける
「地獄の訓練」以外にも、管理者やビジネスマンとしての
心得を学ぶ様々な訓練やセミナーが開催され、
自分を高めようとする方々が全国から集まってこられます。
私がこの会社に営業マンとして入ったのは5年前、
38歳の時でした。
営業の仕事は、企業のトップ、あるいは人事担当者とアポイントを取り、
直接お会いして、社員様の派遣をお勧めするところから始まります。
多くの新人がそうであるように、
駆け出しの頃は契約をいただくどころか、
お会いすることも容易ではありません。
私もまったく実績が出せず、毎日落ち込んでばかりいました。
ところが、ありがたいことに半年ほどたった時、
大きな契約を相次いで成立させることができたのです。
好調な時期はその後も続き、
社内でも「新人ながら凄い男だ」と一目置かれるようになりました。
いつの間にか傲慢になっていたのだと思います。
見込み客をつくることをおろそかにしていたツケが回ってきて、
入社2年目の後半から数字がジリ貧になり、
3年目にはほとんど契約が取れなくなってしまったのです。
日々コツコツと営業努力を続ける仲間には大きな差をつけられ、
部門長からは「残念だが、このままだと解雇せざるを得ない」
と通告されるまでになりました。
■解雇通告、愛車の盗難
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
私に1つの転機が訪れたのは、そういう時でした。
それは仕事とはまったく別のかたちで訪れました。
ある朝、自宅のガレージに停めていた車がないことに気づき、
あわてて警察に連絡すると、
夜のうちに誰かに盗まれたことが分かったのです。
まだ買って間もない車でした。
解雇通告に愛車の盗難と、普通に考えたら
自分の不運を嘆いても不思議ではありません。
しかし、この時私は自分でも考えられないようなことを
妻に話したのです。
「こう考えよう。車を盗まれたことにありがとうと感謝して、
この事実を受け止めようよ。
これは神谷家の悪い因縁を一緒に持っていってくれたものに違いない。
だから、誰かにこのことを聞かれても
『嫌な思いをした』とか『腹が立つ』とか絶対に言わないようにしよう」
この言葉を聞いて、妻はきょとんとした顔をしていました。
それもそのはずです。
その頃の私は解雇寸前の絶望感から自暴自棄になり、
不安や焦り、不満の気持ちばかりを口にしていたからです。
数字ばかりを追いかけ、感謝の欠片(かけら)すらなかった私がこの時、
なぜこのようなことを言ったのか、いまでも分かりません。
あるいはギリギリの精神状態の中で、何かが弾けたのでしょうか。
周囲の状況が変わり始めたのもこの頃からでした。
■神様からのご褒美
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
私は自分が親兄弟や親戚、友人をはじめ、
縁のあった人に感謝すらしたことのない人間だと気づきました。
そこで営業の前後にはお客様の幸せを願い、
心の中で「ありがとうございます」という
感謝の気持ちを表すことにしたのです。
厳しい言葉で断るお客様がいらっしゃっても、
それはもっといいお客様と出会うための天の計らいだろうと感謝し、
ありのままを受け入れることにしました。
社内での仕事のやり方も変わりました。
崖っぷちにあった私は、残りわずかの在職期間なら、
せめて世話になった職場の仲間に恩返しをと、
皆の手助けを一所懸命にしようと考えました。
荷物の持ち運びや片づけに始まり、
求めに応じて仲間の営業の手伝いも進んでやりました。
研修後のフォローアップのために遠方まで出張に行ったりするので、
自分の営業時間は削られていきます。
それでも、どうせ俺は駄目な営業マンと思っていましたから、
仲間に奉仕することだけに力を注いでいたのです。
ところが、自分を忘れて皆のために頑張っていると
おもしろい現象が起き始めました。
いままで疎遠だったお客様、断り続けられていたお客様から
連絡が入るようになり、次々に契約が成立していったのです。
ふたを開けると私は僅か3か月間で
年間の目標を上回る実績を出していました。
1件、2件の契約なら偶然で片づけられるでしょう。
しかしこれといった営業努力もなしに
常識では考えられない実績が出せたのは、
人智を越えたものの働き以外に考えられません。
「目の前の頼まれごとを引き受け続けていると、
神様からご褒美をいただける」という
心学研究家・小林正観さんの言葉を知ったのはこの頃でした。
私がやっていたことはまさに頼まれごとを引き受けることであり、
そのことで運が開かれると知って、大きな自信を得た思いでした。
それまでの私は、営業とはお客様を
自力で口説き落とすものだと思っていました。
しかし、自分なりの営業を続ける中で、
誠心誠意目の前の人を大切にし、
感謝の気持ちで接していったら
必要な時に必要なお客様に出会える、
という揺るぎのない信念が確立されていきました。
私は押しの強い営業マンではありませんし、
目標を必死に追いかけるタイプでもありません。
私が考えているのは目の前のお客様や出来事を大切にすることです。
それでも常に営業成績はトップクラスです。
なぜそうなるのかは自分でも分かりませんが、
そこに宇宙の不思議な働きを感じるのです。
※『致知』2007年6月号「致知随想」より
http://www.chichi.co.jp/monthly/200706_index.html#voice1
神谷正光(かみや・まさみつ=社員教育研究所社員)
※肩書きは『致知』掲載当時のものです
「最後だとわかっていたなら」
"If I Knew It Would Be the Last Time"
あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう
あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう
あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう
あなたは言わなくても 分かってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたなら
一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と
わたしは 伝えただろう
たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい
そして わたしたちは 忘れないようにしたい
若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを
明日が来るのを待っているなら
今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから
微笑みや 抱擁や キスをするための
ほんのちょっとの時間を どうして惜しんだのかと
忙しさを理由に
その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと
だから 今日
あなたの大切な人たちを しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも いつまでも大切な存在だということを
そっと伝えよう
「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう
そうすれば もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから
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この詩は、アメリカ人のノーマ・コーネット・マレックという女性が、
アメリカ同時多発テロでわが子を亡くしたときに書いたものです。