感謝することの大切さについて、ある人に聞いたお話です。
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あるおばあさんのお話です。
そのおばあさんは、家族も親戚もおらず孤独でした。
自分の悩みをある人に、こう打ち明けました。
「自分はもう年老いていて病気で、
入院しているので、人にお世話になりぱなし。
若い頃と違って、もう人の役に立つことはできない。
もう早く死んだ方がいい」
それは聞いた人はこう言いました。
「いいえ、おばあさん。おばあさんにも、
人の役に立つこと、できることがありますよ」
おばあさんは驚いて、その人の話に耳を傾けました。
「たとえば、おばあさんに親切にしてくれる人、
世話をしてくれる人に心から感謝するんです。
そして「ありがとうございます」と言うんです。
それだけでも、
おばあさんは人から喜ばれる人なんですよ」
それを聞いておばあさんは、なんだそんなことかと
がっかりしました。
しかし、おばあさんは、これまでのことを振り返ってみて、
ふと気づきました。
病院に入って、自分は不満ばかりを言ってきた。
あれがない、これがない、
あそこが痛い、ここが痛いと・・・。
看護師たちは、それに対応するのが
仕事だから当たり前だと思ってきた。
少しでも対応が遅いとイライラして、
皮肉や嫌味の一つも言わねば気がすまなかった。
ああ自分はなんと感謝のない日々を送ってきたことか。
それで、おばあさんは、それから自分と関わる人に、
感謝の気持ちを表すことにしたのです。
自分の病室にやってきて世話をしてくれる
看護師さんや掃除担当の方に
「ありがとうございます」
と、その人の顔をちゃんと見て
頭を下げるようになりました。
すると、その人は笑顔になり、
おばあさんも嬉しくなるのでした。
次第に、おばあさんの心から不平不満が消えていきました。
何週間か後、ある見知らぬ婦人が菓子包みをもって
おばあさんの元にやってきました。
「わたしは、この病院にボランティアに来たことのある
中学生の母親です。
うちの息子は、ずっと不登校だったんです。
けれど、この病院で患者さんたちと接するうちに
おかげさまで元気になりました。
特に303号室のおばあさんのことをよく口にして・・・」
303号室のおばあさんとは自分のこと。
おばあさんは、その男子中学生のことを覚えていました。
その子は、食事のお盆や食器を朝昼晩、
体が思うように動かないおばあさん代わりに片付けくれたのです。
「ああ、あの子のお母さんですか・・・」
「はい、うちの子がお世話になりました」
「いえいえ、本当にいい子で、
お世話になったのはわたしの方ですよ」
「はい、おばあさんがそう言って、
感謝してくれるのをうちの子、とっても喜んでいました。
自分も人の役に立てるのが分かったって。
それから、あの子、学校に行くようになったんです。
今まで、私がどんなに説得しても行かなかったのに・・・」
そこでお母さんは泣き出した。
「あの子、ちゃんと勉強して、将来は病院に勤めたいって・・・。
目を輝かせながら言うんです。
あの子のあんないい顔を見たのは、もう何年ぶりです。
おばあさんのおかげです。本当にありがとうございます」
おばあさんも、涙がこみ上げてきた。
自分はただ少年に「ありがとう」と感謝をしただけなのに・・・。
それをこんなに喜んでくれる人がいる。
「おばあさんにも、人の役に立つこと、できることがありますよ」
あの言葉をおばあさんは今一度噛み締め、
目の前の婦人に深く頭を下げながら、
手を合わせて感謝するのでした。
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おばあさんは、ただ感謝しただけです。
でも、まわりの人に喜びをもたらしました。
おばあさん自身も幸せになりました。
感謝することで人の存在を大切に思えます。
感謝することで自分の存在意義に気づきます。
感謝することで私たちは人に役立つことができます。
感謝することで私たちは喜び合えます。
★幸運になれるヒント★
「ありがとう」は喜びの源です。 (^.^)
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※出典:あなたの夢を応援するメルマガ
『心の糧・きっとよくなる!いい言葉 』より転載
2012.1.23 Vol.716
作家 中井俊已
http://www.t-nakai.com
「鳴かぬならそれもまたよしほととぎす」
「鳴かぬなら」の第一句に、天下取りを果たした
戦国時代の三人の武将が三様の第二句をつけた
有名な「ほととぎす」の句がある。
信長は「殺してしまえ」といった。
秀吉は「鳴かせてみよう」といった。
家康は「鳴くまで待とう」といった。
もちろん史実ではない。
だが、三者三様の個性、やり方、歴史的役割などを
あますところなく表現して見事である。
以前、ある人が八百人ほどの経営者にこの
「ほととぎす」の句を示し、
「あなたはどのタイプか」と質問した。
ほとんどの経営者がそれぞれ信長、秀吉、家康になぞらえて、
「自分は何々型である」と回答した。
その中でたった二人だけ、自分はどのタイプでもない、
と答えた経営者がいた。
「では、あなたならどう詠むか」
とさらに質問すると、一人はこう答えた。
「鳴かぬならそれもまたよしほととぎす」
もう一人はこう答えた。
「私は俳人ではないのでうまく詠むことはできないが、
その三つのタイプには入らない」
前者が松下幸之助氏であり、後者が本田宗一郎氏である。
人間は選択肢を与えられると、
その枠の中に閉じこもってものごとを考えてしまいがちである。
与えられた枠、既成概念を踏み越えて
発想を飛翔させることが難しい。
松下氏も本田氏もそれができたからこそ、
新しい流れをつくり得たのだろう。
さて、時代はいま、いよいよ混迷の度を加え、閉塞感が色濃い。
これを突き抜け、新しい流れをつくるには何が必要か。
歴史の中に、企業経営の中に、
新しい流れをつくってきた人たちがいる。
そこから流れをつくり出す条件を探り、学ばなければならない。
流れをつくる。
そのためにわれわれ日本人がどのような発想に立ち、
何をなすかを見定めるのは、焦眉の急なのである。
『致知』2001年5月号
特集「流れをつくる」より
北陸地方随一の冠婚葬祭チェーンを育て上げた
オークスグループ創業者・奥野博氏の
心にしみるお話をご紹介します。
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「どん底の淵から私を救った母の一言」
奥野博(オークスグループ会長)
『致知』1998年8月号
特集「命の呼応」より
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【記者:昭和四十二年、四十歳のときに経験された倒産が、
今日の奥野会長の土台になっているようですね】
倒産が土台とは、自分の至らなさを
さらけ出すようなものですが、
認めないわけにはいきません。
戦後軍隊から復員し、商社勤務などを経て、
兄弟親戚に金を出してもらい、
事業を興したのは三十歳のときでした。
室内設計の会社です。
仕事は順風満帆でした。
私は全国展開を考えて飛び回っていました。
だが、いつか有頂天になっていたのですね。
足元に忍び寄っている破綻に気づかずにいたのです。
それが一挙に口を開いて。
【記者:倒産の原因は?】
「滅びる者は、滅びるようにして滅びる」。
これは今度出した本の書き出しの一行です。
倒産の原因はいろいろありますが、
つまるところはこれに尽きるというのが実感です。
私が滅びるような生き方をしていたのです。
出資者、債権者、取引先、従業員と、
倒産が社会に及ぼす迷惑は大きい。
倒産は経営に携わる者の最大の悪です。
世間に顔向けができず、私は妻がやっている美容院の二階に
閉じこもり、なぜこういうことになったのか、考え続けました。
すると、浮かんでくるのは、
あいつがもう少し金を貸してくれたら、
あの取引先が手形の期日を延ばしてくれたら、
あの部長がヘマをやりやがって、
あの下請けが不渡りを出しやがって、
といった恨みつらみばかり。
つまり、私はすべてを他人のせいにして、
自分で引き受けようとしない生き方をしていたのです。
だが、人間の迷妄の深さは底知れませんね。
そこにこそ倒産の真因があるのに、気づこうとしない。
築き上げた社会的地位、評価、人格が倒産によって
全否定された悔しさがこみあげてくる。
すると、他人への恨みつらみで血管がはち切れそうになる。
その渦のなかで堂々めぐりを繰り返す毎日でした。
【記者:しかし、会長はその堂々めぐりの渦から抜け出されましたね】
いや、何かのきっかけで一気に目覚めたのなら、
悟りと言えるのでしょうが、凡夫の悲しさで、
徐々に這い出すしかありませんでした。
【記者:徐々にしろ、這い出すきっかけとなったものは何ですか】
やはり母親の言葉ですね。
父は私が幼いころに死んだのですが、
その三十三回忌法要の案内を受けたのは、
奈落の底に沈んでいるときでした。
倒産後、実家には顔を出さずにいたのですが、
法事では行かないわけにいかない。
行きました。
案の定、しらじらとした空気が寄せてきました。
無理もありません。
そこにいる兄弟や親族は、私の頼みに応じて金を用立て、
迷惑を被った人ばかりなのですから。
【記者:針の莚(むしろ)ですね】
視線に耐えて隅のほうで小さくなっていたのですが、
とうとう母のいる仏間に逃げ出してしまいました。
【記者:そのとき、お母さんはおいくつでした?】
八十四歳です。母が「いまどうしているのか」と聞くので、
「これから絶対失敗しないように、
なんで失敗したのか
徹底的に考えているところなんだ」
と答えました。
すると、母が言うのです。
「そんなこと、考えんでもわかる」
私は聞き返しました。
「何がわかるんだ」
「聞きたいか」
「聞きたい」
「なら、正座せっしゃい」
威厳に満ちた迫力のある声でした。
【記者:八十四歳のお母さんが】
「倒産したのは会社に愛情がなかったからだ」
と母は言います。心外でした。
自分のつくった会社です。
だれよりも愛情を持っていたつもりです。
母は言いました。
「あんたはみんなにお金を用立ててもらって、
やすやすと会社をつくった。
やすやすとできたものに愛情など持てるわけがない。
母親が子どもを産むには、死ぬほどの苦しみがある。
だから、子どもが可愛いのだ。
あんたは逆子で、私を一番苦しめた。
だから、あんたが一番可愛い」
母の目に涙が溢れていました。
「あんたは逆子で、私を一番苦しめた。
だから、あんたが一番可愛い」
母の言葉が胸に響きました。
母は私の失態を自分のことのように引き受けて、
私に身を寄せて悩み苦しんでくれる。
愛情とはどういうものかが、痛いようにしみてきました。
このような愛情を私は会社に抱いていただろうか。
いやなこと、苦しいことはすべて人のせいにしていた
自分の姿が浮き彫りになってくるようでした。
「わかった。お袋、俺が悪かった」
私は両手をつきました。
ついた両手の間に涙がぽとぽととこぼれ落ちました。
涙を流すなんて、何年ぶりだったでしょうか。
あの涙は自分というものに気づかせてくれるきっかけでした。
「打つ手は無限」
すばらしい名画よりも
とてもすてきな宝石よりも
もっともっと大切なものを
私は持っている
どんな時でも
どんな苦しい場合でも
愚痴は言わない
参ったと泣き言を言わない
何か方法はないだろうか
何か方法はあるはずだ
周囲を見回してみよう
いろんな角度から眺めてみよう
人の知恵も借りてみよう
必ず何とかなるものである
なぜなら打つ手は常に
無限であるからだ
by滝口長太郎
人はただ一人での力で生きることは不可能。
親、兄弟、先輩、同僚、後輩、
見知らぬ人にも助けられて生きている。
人だけでなく、物や環境、
身の回りすべてのもののおかげで生きていられる。
自然の恵み、神仏の加護、自分の存在を生んだ祖先。
「すべてに感謝する心があってこそ、
思いやりの心も生まれ、
人の立場も尊重する行動もできる。
ともに栄え、ともに幸せに生きようという道にも通じるのです。」
by松下幸之助
今日をだらだらと無為に過ごす。
明日も同じこと。
そして次の日はもっとぐずぐずする。
ためらいのひとつひとつが、
それぞれの遅れをもたらし、
日々のことを後悔しつつ日々が暮れていく。
おまえは本気でやっているか?
一瞬考えてみるがいい。
思い切りのよさには才能と力と魔術が内在する。
ひたすら没頭すれば、心に灯が点る。
始めるのだ。
そうすればその仕事は完成する
byゲーテ
女優オードリー・ヘップバーンが亡くなる前の
最後のクリスマス・イブに、
ニ人の息子に読み聞かせた詩をご紹介します。
彼女が好きだった詩です。
この詩に息子たちへの願いと
彼女の美しさの秘密があるような気がします。
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時を越えた美しさの秘密
魅力的な唇のためには、優しいことばを紡ぐこと
愛らしい瞳のためには、人々の素晴らしさを見つけること
スリムな体のためには、飢えた人々と食べ物を分かち合うこと
豊かな髪のためには、1日に1度子供の指でといてもらうこと
美しい身のこなしのためには、
決してひとりで歩むことがないと知ること
人は物よりもはるかに多く回復し、復活し、生き返り、再生し
報われることが必要なのです
繰り返し報われることが
人生に迷い、助けて欲しい時、
いつもあなたの手のちょっと先に
助けてくれる手がさしのべられていることを、忘れないで
年をとると、
人は自分に2つの手があることに気がつきます
ひとつは自分自身を助けるため
もうひとつの手は他者を助けるために
※サム・レヴェンソンの詩集 『時の試練をへた人生の知恵』より
目立たず誰からも注目されない。
平凡なことかもしれません。
評価もされず、感謝もされない。
ごく日常的なことかもしれません。
身近な小さなことに誠実になり、
親切になりなさい。
その中にこそ、
私たちの力が発揮されるのですから
byマザー・テレサ
「一日一生」
橋本喬(観光企画設計者社長)
十年前の十月、いつも通り出社した私を
待ち受けていたのは東京地検特捜部だった。
故・金丸信元自民党副総裁の脱税事件を契機に
明るみになったゼネコン汚職。
土建国家・日本の暗部にメスが入り、
収賄罪で県知事や自治体の首長、
ゼネコンの役員クラスが多数逮捕された。
私もその一人である。
大成建設の営業本部長を経て副社長になった矢先、
宮城県発注工事にからみ、県知事および
仙台市長へのヤミ献金容疑が発覚。
私と仙台支店長と副店長が贈収賄で起訴された。
営業本部長はゼネコンの営業活動の総元締めであり、
必要な資金はすべて私の管理下に置かれていた。
支店長と副支店長が
「知事と市長に少し何かしなくては」と言った時、
私は「そうだね」と答えた。
それが業界の通例だったし、そうしなければ
他社から取り残される。
また、われわれだって贈収賄が
刑事罰に相当することは百も承知。
あくまでも「選挙資金」として渡したのであって、
相手が私的に使っていたなど知る由もない。
「選挙資金と言っても、それに対する見返りを
期待していたでしょう? 何も期待せずに金を出しますか」
取り調べの席で検察は言った。
「そりゃ出しませんな」
と答えると、私は即刻逮捕された。
自分が金を渡してもいなければ、いつ渡したかも知らない。
相手が選挙に使わず、勝手に私腹を肥やしていただけだ……。
言いたいことは山ほどあった。
だが、腹を括った。
すべてを受け入れることにした。
拘置所での生活は、判で押したように
規則正しい生活だった。
七時起床、九時就寝。
十五時から体操で、三度の食事の時間も決められていた。
よく、所内の飯は「くさい飯」といわれるが、
慣れればそれほど不味くもなくなった。
週に三度は風呂に入れたし、半月に一度は床屋にも行った。
とりたてて生活に不自由はなかったが、
「ここは別世界だ」と痛感することは多かった。
初めこそ罪状認否の取り調べもあったが、
早々と罪を認めたら特にすることもない。
独房の中で、これまでのことを考えてみたこともあった。
早大の建築学科を卒業し、
大成に入社したのは昭和三十三年。
東京タワーが完成した年だった。
戦後日本の復興の象徴ともいえる高層建築物を数多手がけ、
四十九歳で取締役東京支店長、
営業本部長を経て副社長になった時は、
「大成初の昭和二桁の副社長」と言われた。
当然、耳に入ってくるのは「次期社長」の声──。
狭い部屋で思いを巡らせても、すぐに行き詰まってしまう。
それに考えたところでどうしようもないのだ。
有り余る時間で、私はやたらと本を読んだ。
拘置所にいた四か月間で百冊以上読んだだろうか。
家族からの差し入れも、本が一番嬉しかった。
特に好んで読んだのは、徳川家康や織田信長などが
登場する長編歴史小説。
別に自分の姿を重ね合わせたとか、
彼らの生き様に鼓舞されたとかいうのではない。
ただただそのストーリーに集中し、没頭していた。
何も考えなくて良かった。
拘置所で年を越し、裁判も一段落した一月下旬、
いよいよ出所の時がきた。
ああ、この生活も終わったんだ。
事態を冷静に受け止めている半面、
誰かに会ってむしょうに話をしたかった。
この四か月、限られた面会時間に家族や弁護士としか
話ができなかったことへの反動だろう。
門をくぐると大勢の人たちの姿が見えた。
私は驚いた。そこにいたのは大成建設の仲間たちだった。
「ご苦労さん」
「お疲れ様でした」
次々と皆に労いの言葉をかけられ、
私は急に現実の世界へ戻ったような気がした。
会社から用意された車に乗り自宅へ行くと、
そこにもたくさんの同僚たちが私の帰りを
いまや遅しと待ち受けていた。
その輪の中に入った時、
「分ってくれる人はたくさんいる」と心から思った。
人生は「一日一生」である。
前から好きな言葉だったが、事件を契機に
その思いはますます深くなった。
人生は一日の積み重ねであり、一日を全力で生きて、
初めて人生をまっとうすることができる。
時には躓き、誤解もされる。
私も逮捕され、社会に大きな影響を与えた。
失ったものも多く、私の肩書きと付き合っていた人たちは、
潮が引いていくように離れていった。
しかし、「人間・橋本喬」と付き合ってくれていた人たちは、
私を支え、励まし続けてくれた。
現在籍を置く観光企画設計社の創業者であり、
会長である柴田陽三氏とは二十数年以上の付き合いになる。
ホテルオークラをはじめ、
全国のホテル設計を請け負っている柴田氏の事務所は、
大成時代の取り引き先だった。
「絶対にいい仕事をして、お客様のお役に立ちたい」
という一心で仕事に取り組んできた私の姿勢が、
柴田さんには伝わっていたのだ。
事件が一段落した時、
「ちょっとうちの会社を手伝ってよ」と言って、
私を副社長として迎え入れてくれた。
いずれ訪れるであろう死の床で、
これまでの人生を振り返った時、
私は幸せだったと思いたい。
結局最後に自分を満足させるのは、
「人様のお役に立った、人様に必要とされた」
という思いだけである。
出世をして金持ちになっても、
死に際に誰も来てくれないような人生は悲しい。
毎日毎日人に優しく、親切に、お役に立つ。
私はそういう人生を送りたい。
『致知』2003年8月号
「致知随想」より
大阪に、これまで5,000人以上が見学に訪れたという
話題の町工場があります。
昭和24年創業、社員数25人
金型製造の枚岡合金工具です。
技術力の高い同社は、創業来ずっと黒字を続けていましたが、
バブル崩壊後に赤字転落。
打開策を模索する中で取り組んだのが、
整理・整頓・清掃の3S運動でした。
この3S運動の導入で、
以前は3K(キツイ・キタナイ・キケン)職場の
典型のようだった同社が、
見違えるように美しい職場になっただけでなく、
社運が向上し、業績も見事回復したといいます。
例えば旋盤用のドリル。
以前は必要なサイズを探すのに
30分以上もかかっていたそうです。
30分という時間に、年間の仕事日数を掛けると
約1か月の就業時間に相当します。
つまり1年間に1か月もの時間を
ムダに浪費し続けていた計算になります。
同社はすぐに整理用の棚を用意し、
ドリルのサイズを表示して順に並べたところ、
すぐに取り出せるようになり、
生産性が大幅に上がったそうです。
自分の身の回りに、
放置したままになっている問題やムダはありませんか?
同社の古芝社長は説きます。
「多くの人は、
運やチャンスが巡ってきても気づかないのです。
しかし、日頃から3S活動を通じて場を整え、
常に問題意識をもっていれば、
巡ってきた運にすぐ気づくのです」
常に身の回りを整え、
よき運やチャンスを確実にキャッチできる
構えをつくっておきたいものです。
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大切なことは、日々の作業の中で
気になることがあればすぐに改善する。
気づいたらすぐに着手することが、
運やチャンスをつかむ大きな秘訣です。
古芝保治(枚岡合金工具社長)
『致知』2010年3月号 特集「運をつかむ」より